「100年の道のり」(74)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎3万円ホールドアウト事件
 戦後すぐに行われた東西対抗に巨人の主力だった川上哲治は参加していない。故郷の熊本・人吉にいた。食糧難克服のため農業で生活を支えていた。間もなく巨人に戻るのだが、その条件として「3万円の契約金」を要求し、それを受け取って上京した。ほとんどの選手が無条件で球界に復帰していたことから事件として騒がれた。球史に中に“川上の3万円ホールドアウト事件”として残る。
 実情はかなり異なる。川上は1945年(昭和20年)8月15日、東京・立川の航空整備師団で終戦を迎えた。直面したのは食糧不足。結婚しており、妻は妊娠中だったため、妻を妻の実家の神戸に。川上は人吉で妻への食糧、自分の親と自分の下の8人のきょうだいの食糧確保のため田畑で働いた。そんなとき、翌年に巨人から「戻れ」。残す家族の生活のため農地を買い取るのに1万5000円など3万円を復帰条件としたのである。
 後日分かったことだが、川上は戦前に巨人入りしたときの監督でパシフィック(太平)の監督に決まっていた藤本定義に誘われ、入団するつもりだった。そのころは兵役に就いた選手は自由に球団を選ぶことができた。リーグ戦再開が決まると「元の球団に保有権」となり、藤本との縁がなくなり、巨人に戻ることになった。
 川上は「巨人に戻ってから(3万円で)随分とたたかれた」と述懐している。そんな批判を好成績のバットでたたきつぶした。戦前の活躍をはるかにしのぐ成績を残し、球界トップのスター選手となった。“打撃の神様”との代名詞をつけられたのだから、人間の運はわからない。藤本の下に走っていたら昭和戦後の球界地図はかなり変わっていただろう。ましてや巨人監督としての偉業V9などはありえなかったと思う。(続)