「ONの尽瘁(じんすい)」(9)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

波乱の幕開けだった。PL学園(大阪)の「KKコンビ」清原和博、桑田真澄をめぐる1985(昭和60)年のドラフト会議は1位指名から予想外の展開となった。同年の日本シリーズ優勝はセ・リーグの阪神だったため,指名はパの6位から始まり,セ6位,パ5位,セ5位…の順で進んだ。7球団目まで済んだ段階で清原は南海,日ハム,中日,近鉄の4球団から1位指名を受け,8番目に登場する巨人の番を待った。
「第1回選択希望選手。読売…」。固唾を飲んだ。次に司会者・パンチョ伊東から読み上げられる名前を聞くまで,清原には一瞬が永遠のように感じられたことだろう。
「く・わ・た・ま・す・み」。聞こえてきたのは,同僚の名前だった。その刹那(せつな),驚きとどよめきの声が地鳴りのようにドラフト会場を占めた。それは日本中の野球ファン全体の印象だったかもしれない。監督の王貞治ら巨人の出席者を除いては…。
その後も清原はロッテ,西武から1位指名され,計6球団によるクジ抽選となった。結果、西武が交渉権を獲得。プロ入りは確約されたが、憧れの巨人から袖にされた18歳のスラッガーは会見場でショックを隠そうともせず悔し涙に暮れた。そして,もう1人の18歳は悪びれることなく、巨人の指名に相好を崩した。
「巨人の1位だったら入ると決めていた」
ドラフト4日後に迫っていた早稲田大の教育学部入学特別選抜試験は辞退された。
明と暗。甲子園を席巻した2人の野球人生はドラフトを境に分断され,そのドラマは後に「KK事件」と呼ばれた。それにしても,巨人はなぜ清原を回避し,桑田の1位指名に動いたのか?
当初,巨人のドラフト戦略の核は間違いなく清原だった。かつて現役時のONが互いにしのぎを削りながらV9へとチームを昇華させた歴史と伝統にあって,原辰徳に続く4番候補は清原抜きに考えられなかった。清原にとっても尊敬する打者・王の元で薫陶を得られるなら本望だったろう。
ところが,その年のシーズンが秋口を迎えたころ,先発陣の不調がたたり,巨人は優勝戦線から脱落した。先発ローテを担う江川卓,西本聖,加藤初らはいずれも全盛期を過ぎ,次世代勢力の定岡正二,槙原寬己、斎藤雅樹には安定性に欠けていた。ドラフトのみならずトレードでも即戦力投手の獲得が,初Vへの喫緊の課題となって来た。そのころ,王と各社の番記者たちとのやりとりは,こんな感じだったと記憶している。
番記者「ドラフトの補強ポイントが変わる可能性は?」
王   「ウ~ン…。やっぱりウチは投手スタッフが不足しているからね」
番記者「即戦力が欲しい,と?」
      王   「社会人の伊東君(昭光=本田技研、後にヤクルト)や長冨君(浩志=電電関東、後に広島)の評判が高いみたいだけど,彼らが来年10勝できるかわからないだろう?」
番記者「…」
      王   「まあ,まあ,その辺はスカウトの意向もあるし,われわれ(現場)との協議のポイントになるんじゃないかな。楽しみにしといてくれよ(笑い)!」
重複必至で獲得の保証がない清原より、単独指名で獲得可能な即戦派投手—。王の構想に桑田が浮上したのは、まさにそのタイミングだったのではないだろうか? 巨人フロントは人気と実力を兼備した清原を押すも,王は「今年だけは現場の声を聞いてくれ!」と,トップシークレットで桑田の獲得に拘泥した。
球界関係者の中には王でさえドラフト会場入りするまで桑田の1位は知らされていなかったという見立てもあったが,現場トップの頭越しにドラフト1位の急転は考えにくい。それに西武球団管理部長・根本陸夫のように「桑田が1位で指名されなければ,ウチが外れ1位または2位で指名する予定だ」と,ドラフト直前に「KK両獲り」を狙う者もいて,戦々恐々のなか王巨人がその動きを阻止した,という見方まである。
どれが真相なのか,今となっては薮の中だが,清原はその2年後の日本シリーズで西武の主砲として王巨人と対戦。日本一を目前にした9回の守備位置で突然、泣き出した。二塁手の辻発彦から「泣くな。試合は終わっていないぞ」といさめられても、あのときの悔しさがオーバーラップしたのか,涙は止まらなかった。
まさかのドラマとなった85年ドラフト。当時の出来事を振り返ると,王が桑田を獲得に動かざるを得なかったもう一つの背景に突き当たる。それは,ある選手の「反乱」が発端だった。(続)