「いつか来た記者道」(72)-(露久保 孝一=産経)

◎熱いプレーを盛り上げる判定の魔術師
 グランドで繰り広げられるプレーには、選手の喜怒哀楽がある。ベンチでは監督、コーチの表情が変化する。一投、一打ごとに試合は動くが、そのプレーに「善し悪し」を与える人間がいる。この人間がいなければ試合は進まないし、成立しない。その人間とは、審判である。目立ない存在ではあるが、捕手の後でストライク、ボールの判定をくだす主審や、セーフ、アウトを告げる塁審の姿には観衆の目が一点に集中する。
 プロ野球界では昭和時代に、西鉄ライオンズの試合で審判の一言が大きな話題になった。アウトかセーフかの判定をめぐり三原 脩監督から抗議を受けた二出川延明は「俺がルールブックだ」と強弁した。そのセリフは後世まで語り草になっている。プロの世界では、誤審が注目され、罵声や非難に向き合っての不安行為はつきものだ。激務である。
 高校野球で活躍している審判も似たような状況にあるが、違った一面もある。高校野球の審判は「審判委員」と呼ばれている。2024年5月上旬、全国紙の読者投稿欄にこんな談話が載った。15年続けた高校野球の審判委員を辞めた30代半ばの男性からだった。
 「仕事と家庭の両立をしながら灼熱のグラウンドに立ち、自分の判定一つで球児たちの人生が変わっていく。罵声を浴びせられても褒められることはない。高校時代は控え選手だった。大人になり審判として甲子園を目指す道が見つかった。おかげで一度も経験したことがない甲子園の公式戦の舞台に400試合も立てたのは私の誇りだ」
 男性は充実した第二の人生を送り、感謝の気持ちでいっぱいだと語った。
▽野球界に恩返しするグランドの先生
 昭和31(1956)年春・夏連続準優勝した岐阜商の2年生エース、清澤忠彦さんは、王貞治さんがいた早実も破って快進撃を続けた。清澤さんは慶応大学から社会人の住友金属に進み監督も経験した。「野球界でお世話になったのでその恩返しをしたい」と審判に「転職」した。球児のハッスルプレーに負けじと意気軒昂を保ち、甲子園審判を18年間務めた。
 大学や社会人あるいはプロ野球から審判に転じた野球人は多い。清澤さんら審判委員が努力したのは、ルールブックに沿った正確なジャッジをすることと同様に、教育的な振る舞いである。球児の現在と未来に明るくつながるような存在でなければならないのだ。明確な素早いジェスチャー、スタンドの声援に負けないような大きなコール、軽快な駆け足を怠らない。審判委員のはつらつとした動作は、選手たちやスタンドの観衆に高校野球の礼儀正しいすがすがしさを引き立てるのである。
 彼らは「グランドの先生」なのだ。不正行為、怠慢な態度、短気な行動、悪口雑言などを、グランドを舞台にして学園から消し去るような教育の場が醸し出されるのである。
 8月には炎天下の甲子園高校野球が繰り広げられる。審判服を着た学生、おじちゃん、父ちゃん、じいちゃんの審判の方々にも、ぜひ応援をお願いします。(続)