「大リーグ見聞録」(92)-(荻野 通久=日刊ゲンダイ)

◎大リーガー D・ジョンソンの屈辱
▽日本野球にショック
長嶋巨人で1975、76年の2年間プレーしたデーブ・ジョンソンが9月5日(現地)、
米国フロリダ州で亡くなった。享年82歳。長嶋茂雄現役引退のあと、球団初のMLB出身野手として入団した。73年にはブレーブスで43本塁打(打率・270、99打点)。〝ポスト長嶋“を期待されたが、思うような活躍はできなかった。
もっともバリバリの大リーガーにとって、日本のプロ野球はカルチャーショックの連続だったようだ。キャンプ地や遠征先の部屋の狭さは「まるで刑務所みたい」。キャンプで練習後、ホテルまで走って帰る。連敗すると移動日まで練習する。そうした監督、チームの方針に驚き、あきれていた。当時の巨人の通訳から聞いた話だ。
試合では3打席目までにヒットを打たないと、長嶋監督がジョンソンに代打を送る。ジョンソンは、現役時代(オリオールズ)の1969年のシーズンオフ、コンピューターを学ぶため、ジョン・ホプキンス大に通った。シーズンに入るとコンピューターを駆使して、理想的な打順をはじき出し、アール・ウイーバー監督に提案しようとしたことがあるくらい、折り紙付きのデータ派、理論派だ。
「打率2割5分の打者なら3打席ダメでも、4打席目はヒットを打つ可能性が高い」
と、長嶋監督の代打策に疑問を隠さなかったという。
変化球を多投する、日本の投手の攻め方にも苦しんだ。ジョンソンは33オンス(約935g)のバットを使用していた。大リーグの重く、速いボールを打つのにはよかったが、日本の投手を相手にはしっくりこなかったようだ。当時、王貞治が使っていたコルクバット(バットの芯をくり抜いてコルクを入れる圧縮バット=現在は禁止)を試したこともあった。
結局、1年目が91試合で打率・197、13本塁打、38打点。2年目は108試合で打率・275、26本、74打点に終わった。
▽数学とコンピューター
ジョンソンは帰国後、1984年にメッツの監督に就任し、86年にはチームを世界一に。現メッツのS・コーヘン・オーナーは「彼は大いなる自信と揺るぎない信念でメッツをワールドシリーズで勝利に導いた」とMLBのHPで語っている。そんな自負心の強いジョンソンが巨人での扱い、成績を屈辱と感じたのは想像に難くない。
ジョンソンは自伝の「The Worst Team Money Can Buy」にこう書いている。
「私の仕事は選手の力を最大限、引き出すこと。私は選手を一人前の男として扱う」
 グラウンド外のことには口を出さず、当時の主力選手だったD・ストロベリーは「ジョンソン監督は私たちがやりたいようにやらせてくれた」とHPで語っている。
 ジョンソンは2012年、トリニティー大学で数学を学び、学位まで取得した。
「私は数学が好きだ。自分は頭がいいとは思わない。ただ(数学を使って)問題を解決するのが好きだ」というジョンソン。その数学とコンピューターを駆使して作戦を立て、メッツの他、4球団で采配を揮った。17年間の成績は1372勝1071敗。勝率・562は1000勝以上している監督としては歴代10位。最優秀監督賞も2度受賞。今では当たり前になっている「ID野球」の先駆者ともいえよう。(了)