今のファンに見せたかった斬り込み隊長-高倉照幸(菅谷 齊=共同通信)

 高倉照幸(2018年2月21日死去)のプレーを初めて見たのは1958年10月21日、後楽園球場での日本シリーズ、巨人-西鉄の最終第7戦だった。球史に残る西鉄の3連敗4連勝のあの決着の一戦である。この試合は前日完封した稲尾和久が先発、1回に中西太が右翼席中段に3ラン。6―1の完勝だった。
 巨人の1点は9回裏、ルーキー長嶋茂雄が放ったランニングホームランである。この一打は中堅にライナーで飛び、中堅手がノーバウンドで捕ろうとしたが間に合わず、打球はグラブに触らずフェンスまで転がった。その中堅手が高倉だった。高倉が背番号25を向けて打球を追いかける間に、長嶋は一気に本塁へ向かい、派手なスライディングで得点した。
 中学3年生の野球少年だった私は、左翼席の中段に座ってこのシーンを見ていた。高倉の名前を胸に刻み込むことになったのは、ゴールデンボーイ長嶋の本塁打が疾風のように走ったものだったからである。
 この試合で高倉は3安打を放ち、1番打者としての役割を果たしたが、それは翌日の新聞を見て打撃を思い出したくらいで、なんといっても稲尾、中西、長嶋らに目が行った。王貞治は高校3年生で、このシリーズから1ヶ月後に巨人入団が決まった。
 記者になってトレードで巨人に来た高倉と初めて会話を交わした。野武士軍団といわれた西鉄の黄金時代を引っ張り、ニックネームは“斬り込み隊長”に“キャップ”。格好いい呼び名である。会ってみると人なつこい人物で、遊び人の雰囲気を持っていた。
 日本シリーズでの長嶋の本塁打を聞いたことがある。
 「ああ、あれな、6対0だったんだぜ。捕れば(稲尾は)2試合連続シャットアウト。突っ込むのは当たり前さ」
 東京での住まいは渋谷区広尾の住宅街。近くに日赤病院、女子校があった。野球より車の話ばかり。外車をとっかえひっかえして乗りまくっていた。修理までするのだから正真正銘の車マニアだった。
 それから高倉の西鉄時代を調べた。ここ一番で仕事をする魔術師こと三原脩監督好みの職人気質。「おっかないトップバッター」というのが印象である。巨人では3番王、4番長嶋の後の5番を打った。勝負強さはさすがだったが、5番高倉はよそ行きに見えて仕方なかった。やはり「1番、センター高倉」なのである。172センチの小柄。ところが強打、俊足、強肩。今のファンにぜひ見せたかったプロらしい“粋な男”だった。(了)