「教える」-大学講師を務めた江本孟紀-

◎「教える」こと

60代になって得がたい体験をした。
 「大学生に教える」
 私の母校、法政大学で講師を務めたことである。講義は前期が「スポーツと政治」、後期は「スポーツ政策論」。年々生徒が増え150人くらいになった。
 講師を引き受けた理由は、私が長い間、心の中にあった“恩義”だった。
 高校3年生の春、選抜大会に出場することになっていたのだが、部員の不祥事が原因で出場取り消しになった。1年間の対外試合禁止という処分だったので、当然、最後の夏もチャンスがなくなった。
 希望のない3年生。好きな野球もできない。それでも大学進学を目指した。当時、引く手あまただったが、立教大一本鎗だった。ところが途中で断られ、すぐに法政大のセレクションへ。そこで特待生扱いにしてもらった。その恩義。このときの嬉しさは今でも心に残っている。
 しかし、大学時代はたいした成績を残せず、野球部にというより、大学に対して申し訳ないという気持ちをずっと持っていた。40年ものちにその恩返しのチャンスが巡ってきた。
 私がプロ野球の世界にいたのは11年。その短期間に東映(現日本ハム)南海(現ソフトバンク)阪神の3球団に在籍した。引退のきっかけは「ベンチがアホやから・・・」だったから、いま思えば“問題児”だったのだろう。
 ユニホームを脱いだ後、多くの方の理解があって解説者などプロ野球に携わる傍ら、さまざまな仕事をこなした。参議院議員時代は、totoなどの法案を成立させた。スポーツ界全体を考えてのことだったから、一応「誇れる思い出」である。
 学生に教えるため、今まで一番勉強して(予習)授業に臨んでいたので苦労していた。大変だったのは試験問題の作成と採点。とりわけ採点は時間がかかった。問題は一つ作ればいいのだが、採点は学生数の答案用紙を見なければならない。単純にいえば採点は問題の150倍になるわけで、さすがにきつかった。
 野球選手を採点するのはお手のものだが、学問の評価は学生の将来にもかかわるから真剣、慎重だった。終わってみての収穫は「教えることの責任」である。世の指導者は心せよ、ですな。(了)