第4回「大阪球場」(1)取材日2006年10月下旬
◎血染めの4連投、感動の優勝パレード
▽怨念の南海、常勝巨人に立ち向かう
浪花の街は、「情念」「人情」のドラマがよく似合う。曽根崎心中の近松文学に将棋の坂田三吉、破天荒な噺家桂春団治…。頂点を極めようともがいた南海ホースの「日本一奪取」も、やはり浪花人情劇のひとコマに組み込んでよかろう。
半世紀近く前の1959年(昭和34)、南海vs巨人の日本シリーズは、南海にとって負けられない事情があった。4年ぶり5回目の対戦だが、前回などは3勝1敗から逆転負けだった。第5戦で別所毅彦にしてやられた3敗目が響いた。別所は南海の大黒柱だった。ところが、48年のオフ、「別所引き抜き事件」で巨人にさらわれた経緯がある。昨年は、ほとんど南海入りが決まっていた長島茂雄(現長嶋)までも土壇場で巨人に持っていかれた。南海には「怨念」にも似た感情が渦巻いていた。
大阪球場での第1戦、南海のマウンドに下手投げの杉浦忠(享年66歳)がいた。前年、立教大から入団していきなり27勝12敗、防御率2.04で新人王。翌年は38勝4敗で最多勝、勝率は.905で1位。防御率も1.40でトップ。336の奪三振でMVPに輝いた。鶴岡一人監督がその若鷹にシリーズの命運を委ねたのは当然である。
▽血染めの快投杉浦、4連投4連勝
この試合、杉浦は8イニングを3点で抑え、7点リードでベンチへ下がった。が、彼に厄介な事態が忍び寄っていた。6回ごろに右手中指の先に血マメができたのだ。公式戦終了後に疲労を取るため、1週間投球練習を休んだことで指先の皮が軟らかくなったらしい。
「針で血を抜いた。温まるとズキンズキンと痛むので指先だけ布団から出して寝た」
自著の『僕の愛した野球』(海鳥社)で杉浦はそう書いている。1回の初打席で杉浦から左前安打した長島は杉浦の投球ぶりを、
「5回ごろまでの杉浦は速かった。その後、球速は落ちたが制球のよさで持ち応えていた」(10月25日付、報知新聞)。
とみている。マウンドを降りたのは大差がついたため、指先にマメができていることなど知るよしもなかった。
先勝した南海は、このシーズンから主将になった岡本伊佐美が、あの別所から2打席連続本塁打を浴びせたのが効いた。
「1本目はスライダー、2本目はシンカー」
岡本の手には今もあの瞬間の感触が残っている。
第2戦、南海は4回に4対2と逆転すると5回から杉浦を投入して6対3で逃げ切った。移動日を挟んだ第3戦(後楽園)で杉浦はまた先発した。2対1の9回裏、坂崎一彦に同点本塁打を浴び、加倉井実に2塁打されて1死2、3塁の大ピンチを背負った。このとき,心配していた中指のマメの皮が破れてしまった。指先がベロンと剥き出し状態になり、赤黒く腫れ上がっていた。
杉浦自身、限界を感じていた。「代えてほしい」とベンチを見るが、鶴岡は目を合わさない。伝令がやって来て尻のポケットに何か突っ込んだ。鶴岡の出身地、安芸の宮島(厳島神社)のお守りだった。験を担ぐ鶴岡の秘蔵のお守りである。杉浦は監督の熱い思いが伝わってきた。気持ちを振り絞って投げた。
と、今度は捕手の野村克也が険しい表情で歩み寄ってきた。
「おい、大丈夫か。ボールに血が付いているぞ」
「内緒にしてくれ」
責任感の強い杉浦は続投した。延長10回を2点に抑えたのだ。
雨で一日置いた第4戦でも杉浦はまたも先発、生傷の痛みに耐えて3対0と完封した。長島にも12打数3安打と投げ勝った。32イニングスの投球数は436球。ついに悲願の日本一をもたらした。
下手投げの投手は「技巧派」と思われがちである。でも、杉浦に限ってはその分類に当てはまらない。あの浮き上がる速球は「下から投げる本格派」そのもの。かつての女房役、野村は、
「真っ直ぐがよく伸びる。カーブも右打者の背中の後ろから曲がってくる。オレは杉浦が最高のピッチャーだったと思う」
と言っている。(続)