優しさと気配りの男だった鉄人-衣笠祥雄(岡田忠=朝日)

「鉄人」の異名で多くの人に親しまれた衣笠祥雄さんが亡くなった(2018年4月23日)とは、今も信じられない気持ちでいる。あの人懐っこい笑顔と甲高い声で、今日にもひょっこり現れそうでならないのだ。
 上行結腸ガンが肝臓や肺に転移していたそうで、ガンは鉄人の命も奪い去ったのか。ご子息の友章さんによると、4月23日の午後、衣笠さんは昼寝のあとジュースを飲み、そのあと水を飲んでまた寝たそうだが、急に容態が変わって眠るように息を引き取ったという。享年71だった。

▽不滅の17年間、2215試合連続出場

いかついニックネームに反して、気配りの利く、優しくて忍耐に満ちた人だった。彼の功績や逸話は語り尽くせないが、やはり2215連続試合出場記録は彼の代名詞だろう。1970年10月から87年に引退するまで、1試合も休むことなく17年間試合に出続けた。オギャーと生まれた子が高校を卒業する年月と同じだ。同年6月には野球界で2人目の国民栄誉賞を受けている。
 通算2543安打、504本塁打、1448打点、266盗塁。打点王、盗塁王のタイトルもある。なにより山本浩二さんと並ぶ”赤ヘル“を代表する選手だった。
 色紙には必ず「忍耐」の二文字を入れた。「衣笠祥雄」の人柄は、我慢強さと優しさにあったよう思う。何度も骨折しながら平然と乗り越えた気力には感服した。

▽フルスイングは愛情の表現

連続試合出場記録が続いていた79年8月1日、巨人戦(広島)で西本聖投手から死球を受け、左肩甲骨を骨折した。左肩に激痛が走って左手が上がらない。夜は胸の上に手を置いて寝た。ところが朝、目を覚ましてみると左手が頭の上にあった。「おっ、動いている。試合に出られるかも」と闘志をかき立てる。
 球場に出かけると、古葉竹識監督が「サチ(衣笠)、休むか」と問いかけた。「いけます」と鉄人。試合の後半、代打で登場した衣笠さんは、江川卓投手の剛速球にいつものフルスイングで3球3振だった。
 「痛くなかった?」 と愚問をぶつけると、「痛い、でも激痛は何秒か、それを3回我慢すればいいんです」と平然とでは言ってのけ、「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにフルスイングしました」と言った。
 よく死球を受けたが、いつも右手を上げて「大丈夫!」と笑顔で受け流した姿が忘れられない。
 左手の親指を骨折したときは、グラブの親指に穴を開け、添え木を突っ込んで衝撃を抑え、打球を捌いたこともある。
 どうしてこんな態度がとれるのか。それはコーチだった根本陸夫さんから叱責を受けたのが要因の一つに挙げられよう。いつだったか、痛そうなそぶりをしていたら、「サチ、何だその格好は。お客さんはお前の痛そうな格好を観に来ているんじゃないぞ。ユニホームを着たら痛そうなところを見せるな」とひどく怒鳴られた。「以後気をつけたね」と衣笠さんは言ったものだ。

▽鉄人の受け渡し、万感の拍手

優しさと気配りといえば、76年に大リーグのカル・リプケン・ジュニア(オリオールズ)が自分の連続出場記録を抜いたときのことだった。「お祝いをしたい」と衣笠さんが私に言ってきた。じゃ直接言おう、とオリオールズがビジターとして試合を行うミズリー州のカンザスシティに飛んだ。
 ロイヤルズの本拠カウフマン・スタジアムでちょっとした式典が行われ、衣笠さんがマウンドに立ち、リプケンが捕手を務めた。このときのオリオールズの監督は巨人で内野手として活躍したデーブ・ジョンソン。一塁側ベンチから私はジョンソンと二人で眺めていた。この始球式は、新旧の”鉄人の受け渡し”のセレモニーを意味し、満員の観客が総立ちで拍手を送っていた。
 彼は「明日にならなきゃ、分からない」とよく言った。それは出たとこ勝負という捨て鉢な意味ではなく、常に希望を持って!と言いたかったのだろう。こよなく野球を愛し、記録にも記憶にもいっぱいの足跡を残した鉄人だった。(了)