「プロ野球OB記者座談会」第4回

◎ワンポイントリリーフの歴史と代表選手

[出席者] 司会・島田健(日本経済)、大場宇平(報知)、蛭間豊章(報知)、菅谷齊(共同)、田中勉(時事)、高田実彦(東京中日スポーツ)、露久保孝一(産経)、真々田邦博(NHK)
(敬称略、選手名の所属チームは当時の球団名とし、複数球団に所属した場合は最も活躍した球団名とする。記録は2017年末現在)

▽嚆矢は名監督の采配?

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司会島田 「投手のスペシャリストといえば、ワンポイントリリーフになるわけですが、いつごろから出現したんでしょうか」
菅谷 「何回もやったわけじゃないけれど、巨人の水原茂監督が200勝投手の左腕・中尾碩志を晩年に相手の強力左打者にぶつけたのが最初かもしれない」
蛭間 「1956年(昭和31年)の阪神戦ですね。8月26日、甲子園で八回無死満塁のピンチ、阪神が左の代打田宮謙次郎を送ると水原は、好投の堀内庄に代えて左腕の中尾を出した。中尾が三振に取ると、すぐに大友工を送ってピンチをしのいだ。采配の妙といわれたものでした」
菅谷 「水原は米国野球通だったから、そんな交代ができたのかもしれないね」
大場 「監督といえば、三原脩も忘れてはダメだね。試合終盤になりピンチに左打者が出てくると、左投手を出すのだが、先発投手を交代させず、一塁とか、三塁に残して、左投手が仕事を終えるとまたマウンドに復帰するという三原マジックを何度も見せてくれた」
高田 「28連敗した権藤正利も三原の元でいい働きをしていたね」
蛭間 「三原は変則交代ばかりでなく、当て馬先発というか、一回だけ投げさせて二回から交代させるなんて彼しかできない采配も多かった」

▽代表選手はパの永射保、セの清川栄治

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露久保 「ワンポイントリリーフといえば、西武時代の永射保でしょう。ロッテのレロン・リーや日本ハムのトニー・ソレイタをきりきり舞いさせて、球界にこのポジションを確立させた選手といえる」
司会 「永射はピンクレディーのサウスポーや水島新司の漫画のモデルにもなりました」
露久保「リーなんかはあまり打てないんで、永射が出ると右打席に入ったことがあります」
菅谷 「左のワンポイントが多いのはやはり、左打者に強打者が多かったから。代表打者はもちろん王貞治で、左の横手投げ変則には苦しんだ。広島の清川と大洋の平岡一郎が代表だろう」
真々田 「清川は王だけでなく、よく使われたが、救援ながら29打者連続で塁に出さないという記録を作っている」

▽強力打者キラー

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司会 「永射とリーみたいな関係は結構ありましたね」
高田 「阪神のランディ・バースと巨人・角盈男の対決はハラハラさせられた」
田中 「阪神の遠山奨志(しょうじ)は巨人の松井秀喜キラーとして名前を売った」
大場 「阪神は野村克也監督時代、右横手投げの葛西稔と二人で、打者の左右によって一塁と投手を複数回交代するダブルワンポイントは話題になった」
田中 「中日の大豊泰昭には広島の小早川幸二が強かったね」

▽右のワンポイントは木塚敦志

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司会 「ほとんど左投手ですが、右は」
蛭間 「一時の阪神・葛西がそうだったけれど、数字的には横浜の木塚ですね。2007年には76試合に登板しましたが、33回は一人のみの対戦でした。右投手では、総合的には唯一のワンポイントといっていいでしょう」
菅谷 「横浜は後輩の加賀繁が右打ちの外国人打者に強い。特にヤクルトのウラディミール・バレンティンが嫌がっているね」

▽小林正人もお忘れなく

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司会 「そのほか落としちゃいけない投手は」
高田 「落合中日を支えた小林正人だね。左打者に対する被打率は1割台。スペシャリストぞろいのナインの中でも光っていた」
菅谷 「パでいえば、近鉄の柴田佳主也、西武の杉山賢人、ロッテの鉄人、藤田宗一だね」
田中 「最近ではソフトバンクから巨人に移った森福允彦も欠かせない。鷹時代はキレのいいスライダーで眼を見張る投球を見せていた」
司会 「投手分業制になって、ワンポイント投手も重要になってきましたが、最近は少し影が薄いような気がします。それだけ強力な左打者が減ってきたのかもしれません。どうもありがとうございました」(了)