新人選手の獲得、活躍あれこれ(5)

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出席者:司会・菅谷齊(共同通信)真々田邦博(NHK)高田実彦(東京中日スポーツ)露久保孝一(産経)岡田忠(朝日)山田収(報知)蛭間豊章(報知)財徳健治(東京)島田健(日本経済)荻野通久(日刊ゲンダイ)田中勉(時事通信)

司会・菅谷 セ・パ2リーグで新たなスタートを切ったプロ野球は、順調に人気を高めていった。それを引っ張ったのは東京六大学リーグ出身の選手たちだった。振り返ると、1954年に早大から巨人に入団した広岡達朗がきっかけになったと思う。
 高 田 56年に明大の秋山登が大洋入りして新人王になった。ここから立大の長嶋茂雄が巨人入りした3年間のメンバーはすごかった。
 荻 野 秋山は当時の超弱小チーム。だからか毎日のように投げていた。
 真々田 秋山と捕手の土井淳のバッテリーら明大から5選手が大洋に入ったんだが、当時は“明大5人組”と話題になった。
 山 田 秋山は巨人入りが有力だったらしい。明大の島岡吉郎監督が大洋入りを勧めたというね。
荻 野 秋山は、プロに入ったらボールが遅くなった、と言っていましたよ。(笑)
 露久保 大洋が60年に最下位から一気に優勝し、日本一になった。三原脩監督の“三原マジック”といわれたが、それも秋山が入団したのが奇跡の要因だったと思う。
資料1=1956-58年にプロ入りした主な東京六大学リーグ出身選手
▽56年 秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利(以上明大-大洋)佐々木信也(慶大-高橋)大沢昌芳=啓二(立大-南海)酒井敏明(早大-中日)
▽57年 藤田元司(慶大-日本石油-巨人)木村保(早大-南海)中田昌宏(慶大-阪急)衆樹資宏(慶大-毎日)東実(立大-南海)矢頭高雄(立大-大映)斎田忠利(法大-近鉄)
▽58年 長嶋茂雄(立大-巨人)杉浦忠(立大-南海)本屋錦吾(立大-阪急)森徹(早大-中日)近藤和彦(明大-大洋)小坂佳隆(法大-広島)
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 中 野 56年に慶大からプロ入りした佐々木信也は187安打を放つ活躍をした。新人王候補だったが、新人王は21勝を挙げて優勝に貢献した西鉄の稲尾和久。佐々木は、相手が稲尾じゃあな、と苦笑いしていましたよ。(笑)
 岡 田 稲尾は“神様仏様…”といわれたスーパーマン。佐々木も納得だろうと思うね。
 財 徳 大沢は“親分”と呼ばれたね。
 山 田 プロ野球OBクラブの理事長を長く務めていたんだ。
 田 中 テレビ番組の“喝”“あっぱれ”で人気があった。
 高 田 南海時代、長嶋獲得のため交渉役をしていたんだ。
 菅 谷 立大時代に監督排斥運動で重要な役割を果たした。監督不在でリーグ戦を戦ったことがある。
 島 田 藤田は大学時代に“悲運のエース”といわれていた。
 高 田 好投しても優勝できなかったからね。
 露久保 藤田は日本石油のエースとして都市対抗で優勝。巨人では長嶋を押しのけて2年連続MVPに選ばれている。
 高 田 ニックネームは“ガンちゃん”といってね、インドのガンジー首相に似て痩せていたところから命名されたんだよ。
 岡 田 木村はルーキーの1年目だけだった。20勝を挙げたんだが、2年目は肩を壊して外野手登録。たった2シーズンで退団した。
 真々田 不運の投手だったね。彼は八尾高時代、甲子園で準優勝ピッチャーだった。
 島 田 高校、大学で消耗したんだろう。
 菅 谷 斎田はのちにパ・リーグ審判部長を務めている。
資料2=1956年第2回アジア野球選手権大会 東京六大学代表選手
▽投 手 秋山 登 (明大4年-大洋)
     木村 保 (早大3年-南海)
     杉浦 忠 (立大2年-南海)
     原田靖男 (東大2年)
▽捕 手 土井 淳 (明大4年-大洋)
     酒井敏明 (早大4年-中日)
▽内野手 中田昌宏 (慶大4年-阪急)
     佐々木信也(慶大4年-高橋)
     中野健一 (法大4年-毎日)
     岩岡保宏 (明大4年-大洋)
長嶋茂雄 (立大2年-巨人)
近藤和彦 (明大2年-大洋)
▽外野手 沖山光利 (明大4年-大洋)
     衆樹資宏 (慶大4年-毎日)
     宮崎義郎 (早大2年)
森  徹 (早大2年-中日)
▽監 督 島岡吉郎 (明大監督)
▽コーチ 森 茂雄 (早大監督)
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 田 中 すごいメンバーだな。
 山 田 このままのメンバーでプロでも優勝できるな。
 島 田 こういうチームの監督をしてみたいだろうね。
 真々田 代表20人のうち18人がプロ入り。当時の東京六大学の実力は相当なものだったことが分かるよ。
 露久保 藤田が選ばれていないんだからな…。
 菅 谷 このアジア大会で優勝したんだが、主に3、4番は長嶋、森の2年生コンビだったというね。森がよく自慢していた、シゲ(長嶋)とオレで勝ったんだ、とね。
 山 田 試合はフィリピンのマニラで、長嶋が大ホームランを打ったことでも知られるね。
 田 中 こうしてみると、58年プロ入りのメンバーがひときわ光るな。
 財 徳 長嶋、杉浦、本屋敷の“立大三羽ガラス”はすごい。
 岡 田 長嶋は当初、南海入りが有力視されていた。杉浦と一緒に、ね。
 高 田 それがひっくり返った。
 岡 田 南海の鶴岡監督は、縁がなかったな、と長嶋に言ったというね。
 菅 谷 鶴岡は、広岡のときも巨人にひっくり返された、と言っている。
 岡 田 だから杉浦で巨人に日本シリーズで勝ったときは積年のナントカを晴らした感じだったと思うね。巨人には広岡も長嶋もいたんだから。
 真々田 もし長嶋が南海入りしていたら野球地図は変わっていたと思う。
 荻 野 南海には野村克也がいたから、長嶋との絡みはどうなっていただろうね。
 高 田 森はパワーがあった。力自慢だったな。
 菅 谷 彼は勉強ができた。高校と大学2年までは特待生だった。オレは野球ではなく勉強の特待生だぞ、と胸を張っていたな。坊ちゃん育ちでケンカが強く、わがままなところから中日では名前に引っ掛けて“ムリ(無理)・トオル(通る)”といわれていた。(笑)
田 中 プロレスの力道山と義兄弟だったのは有名な話だ。
 露久保 近藤はユニークな打者だった。個性的でね。
 財 徳 バットを担いでから打つところから“天びん打法”と呼ばれた。
 蛭 間 打率2位が多かった。長嶋がいたからなんだが、長嶋がいなかったら首位打者を何回か取っていたかもしれない。
 菅 谷 シンでとらえるセンスがあった。だからバットをほとんど折ったことがない。年間3本でOKだったと聞いたことがある。
 島 田 まさに職人ワザ。プロらしい選手だった。
 岡 田 小坂は守備の天才。人気チームに入団していたら評価はかなり違った。屈指の二塁手だったな。
菅 谷 次回はドラフト会議が導入されるまで、これまで名前が挙がらなかったけれども、その後のプロ野球を支えた大学出身選手に焦点をあててみたい。(続)