「オリンピックと野球」(2)-(露久保孝一=産経)

◎関西決戦に燃えたタカとトラ、なぜ客が入らない?

1964(昭和39)年は、人気の巨人が一度も首位に立てなかった「暗黒の年」だった、とこの初回コラムに書いた。ところが、勝敗は裏表あり、「光明の年」だった、と歓喜に沸いたチームがあった。西のセ、パ優勝チームである。オリンピック開催年は「関西決戦」だったのだ。
 公式戦の日程は、10月10日の五輪開会式までに全日程を終了するように公式戦が組まれた。開幕はセ・リーグが前年の4月13日から3月20日に、パ・リーグは同4月6日から3月14日に前倒しして実施された。ところが、「間に合わない」事態が…。

▽同日の祭典…昼はオリンピック、夜はシリーズ決戦

ペナントレースは白熱した。セ・リーグは「三原マジック」に乗って大洋(現DeNA)が首位を走り、9月17日の時点で、2位阪神に3・5差をつけた。そのまま大洋が逃げ切る、というのが大方の予想だった。しかし、「知将」三原脩監督がずるずると負け始め、「老将」藤本定義監督の阪神にひっくり返されてしまった。

パは独走態勢で来た南海(現ソフトバンク)が失速し、阪急に0.5差まで迫られる。

浪速は大騒ぎだ。大逆転優勝した阪神と、辛うじて逃げ切った南海との関西シリーズとなった。10月1日、甲子園で第1戦。10月10日の五輪開会式までにはケリがつくだろう、とコミッショナーはなんとなく楽観していた。

あにはからんや、シリーズはもつれた。第1戦の南海勝利のあと、阪神、阪神、南海、阪神、南海ときて3勝3敗となった。なんと、第7戦が五輪開幕とぶつかってしまった。「えらいこっちゃ」。

昼はオリンピック開会式、夜は甲子園シリーズ決戦となった。

試合は、南海のスタンカが第6戦につぐ連投で、阪神を完封して日本一に就いた。阪神の日本シリーズにもかかわらず、スタンドには1万5172人の観客しか集まらなかった。

▽五輪人気に煽られたからか、巨人戦ではなかったからか

「ビッグゲームなのに、球場はなぜ満員にならないのだ!」

スタンカは、寂しそうに空席が目立つスタンドを見つめた。

「オリンピック開会式までにはすべての試合を終える」という年初の公約は、果たせなかった。ペナントレースは、台風による試合中止も重なり、阪神の優勝は9月30日のシーズン最終戦になった。甲子園でのセ制覇に、ファンは狂喜乱舞し、グランドになだれ込んでファンによる胴上げとなった。

勝利の美酒に酔った翌日は、南海とのシリーズ第1戦である。この熱気からすれば、関西決戦のスタンドは満員になるはずであったのだが、そうはならなかった。

観客の不入りは、オリンピックムードに煽られたせいでもなかった。当時からプロ野球界の人気は「巨人1強」であり、「関西の雄」阪神とはいえ、甲子園で巨人戦以外は満員になる試合はほとんどなかった。

シリーズの対南海は、寂しいかなその一つだったのだ。試合はシリーズにふさわしい激闘関西決戦で注目されたが、野球全体では、盛り上がらない年であったようだ。ここでも、巨人という存在が影を落としているのである。(続)