「いつか来た記者道」(23)-(露久保孝一=産経)
◎甲子園に返しにいけなくなった
2020年のスポーツ界は、時間が止まったかのように、活動が制限されてしまった。新型コロナウイルスの爆発感染で、プロ野球は開幕を延期し、アマチュア野球の春の選抜高校野球大会は、3月に中止になった。あこがれの甲子園に出場が決まっていた高校球児は、無念の唇をかみしめた。
「この砂を返しにいけなくなった」
そうつぶやく選手がいた。前年の大会で負け、その時、甲子園の砂を九州に持ちかえったのだ。砂は、飾るためのものではなく、次の出場を勝ち取るための励みとして保管しておいた。その砂を見て練習に取り組み、2020年春の大会出場を手にした。ところが、大会が中止になって砂は返せなくなった。
▽持ち帰った砂を見て、きっとプロへ
「高校生としてはもう甲子園に返せなくなったが、プロに入って甲子園の試合に出て返したい」
そう将来の夢を語った。その球児は、名前を明かすことを拒んだ。実は、控え選手だった。しかし野球が大好きで、大きなけがを克服し、いつかチームでレギュラーの座をつかんでみせるというチャレンジ精神は旺盛だ。プロという、彼にとっては「大難関」に挑む気持ちを抱きつつ、甲子園の砂を見てはバットを振り続ける。
甲子園の砂を、土とも表現するが、最初に持ち帰ったのは、巨人V9の監督川上哲治だといわれる(諸説あるが、川上説が有力)。1937(昭和12)年、熊本工のエースとして夏の大会決勝まで進んだ川上は、敗退しグランドの土を持ち帰った。それを母校の練習場にまいた。高校野球は、第2次世界大戦中は中止となったが戦後復活し、46年の大会は西宮球場で行なわれた。
▽「土」にかける球児たちの熱い思い
初出場した東京高等師範学校付属中は、準決勝で大敗する。監督は、ショックの選手に呼びかけた。
「自分のポジションの土を取ってこい。来年、返しに来ようじゃないか」
川上は個人で持ち帰ったが、チームで行なうようになったのは、この時が始まりだといわれる。
球児たちが土を持ち帰る姿は、テレビ中継でもおなじみのシーンである。中には「もって帰らない。次もまた甲子園に来たいから」という選手も少なくない。
2009(平成21)年の選抜大会の決勝で敗れた花巻東のエース、菊地雄星(マリナーズ)はそう言って自分を奮い立たせた。2015年の夏の大会準決勝で負けた早実の強打者だった清宮幸太郎(日本ハム)も、同じ気持ちだったという。
甲子園の土を持ち帰るにしろ、持ち帰らないにしろ、「甲子園の土を踏めなかった」のは、戦争中に続いてこの20年が2度目である。プロ野球の方は試合開催が混乱し、まるで戦争中であるかのような打撃を蒙った年であった。(続)