「セ・リーグDH採用で球界が変わる?」-(山田 收=報知)

第4回 DHが生んだ素晴らしき野球人②
 外国人の長打力をクローズアップさせた指名打者制度。振り返れば1970年代はチャーリー・マニエル、クラレンス・ジョーンズ。80年代はレロン・リー。90年代はオレステス・デストラーデ、ラルフ・ブライアント。00年代はタフィー・ローズ、アレックス・カブレラ。10年代以降はアルフレド・デスパイネあたりが代表格だろう。全員が日本球界そしてファンに強烈な印象を残した。
 では最強の日本人DHは誰か、といえば、門田博光というのが衆目の一致するところではないか。クラレ岡山からドラフト2位で南海入り、俊足・強肩・強打の外野手として2年目の71年にレギュラーを獲得。170㌢、81㌔と小柄ながら、一本足打法を取り入れ、フルスイング打法で中距離打者から長距離砲へと転身を図った。
 ところが、当時の監督であり4番打者の野村克也から、
「お前は俺の前にランナーで出てくれ。ホームランは狙わなくていい」
と言われ、2人の間に溝ができたという。
77年の野村監督解任で4番に座り、その呪縛からも解かれた。小さなホームラン打者への道が開けたかに見えたが、暗転したのは79年。春のキャンプで右アキレス腱を断裂。出場はシーズン終盤の19試合に留まった。80年からはDHが門田の主戦場になる。
「ホームランなら足に負担はかからない」
と言い放ち、全打席本塁打を狙うという“門田イズム”をDHというポジションが後押しした形になった。
 1㌔の重量バットを軽々と振り回し、大きなフォロースルーで打球を果てしなく飛ばす門田の魅力は、パ・リーグの名物となった。81年には126試合すべてにDHで出場、44本塁打で初のタイトルを獲得した。
 DHというポジションは、足への負担を和らげるだけでなく、門田の野球人生を間違いなく延ばした。
特筆すべきは、40歳となった88年だ。130試合DHでフル出場、44本塁打、125打点の2冠に加え、MVPにも輝いた。オリックス移籍1年目の翌89年に33本。90年には42歳で31本と年齢別最多本塁打を記録した。まさに不惑のパワーヒッターだった。
2006年の殿堂入り表彰の記者会見で、
「上体を捻じって、捻じってバチンとスイングをする選手が最近は少ない」と、当てに行く風潮を嘆いてみせた。
その後、柳田悠岐、吉田正尚とフルスイングをモットーとする後継者が現れたが、先人にはとてつもない男がいたわけだ。
 通算567本塁打、1687打点はともに歴代2位。2571試合中1326試合出場したDHがなければ、この偉大な記録は生まれなかったろう。小さな長距離砲誕生に深くかかわった野村克也がその後、もう一人の熟年指名打者をプロデュースすることになる。(続)