「菊とペン」-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎ホンマかいな、タクシー運転手の情報
私のデスク時代、タクシーにまつわる話である。90年代後半、東京本社が木場から大崎駅近くに移転した。
移転したその日である。午後11時頃から玄関前にタクシーが数台停まっていた。すべて同じ会社である。移転の情報を早くから入手していたのだろう。某社の独占となった。他社の参入は許さない。縄張りみたいなものだ。
 デスク当番は深夜12時を軽く回り、山手線が終わった時間になる。利用者は常に5、6人はいた。やって来る運転手は顔ぶれがいつも決まっていた。利用者も限られている。顔なじみとなって妙な親近感が生まれた。ちなみに自宅
までは4、50分である。
 ユニークな運転手がそろっていた。博打好きでで儲かった話を延々とする。家族の自慢話が止まらない。女好きで乗車した女性客をナンパした成功談も聞かされた。
 「ちょっとカマを掛けたらその気になりましてね。私、すぐにわかります」「へえ、そんな時は?」「しかるべき所で…。タクシー代はタダです」
 ホンマかいな?虚実織り交ぜた話がさく裂する。精力自慢の猛者もいた。
「最近どうですか、下の方は?」「全然だよ。疲れてその気にならない」「いい方法があります。生肉(ユッケ)を食べると効きますよ。私は毎日食べています。試してみたらどうですか」。イヤだ。
 さらに社内事情通もいた。「私の情報によるとQさんは近く転勤しますよ」。どうやら管理職の某がペラペラしゃべっていたらしい。的中の確率は高かった。おだてて確度が高い人事情報を何件かゲットした。
 帰りの道中、確かに飽きないが、疲れているき時はうっとうしい。正直、寝かせてくれと思ったこともある。ところが、決して寝れない運転手が1人いた。50代の後半で、言葉は悪いが小柄で痩せている。おじいちゃんに見えた。外見とは裏腹に運転が乱暴で、しかもスピード狂である。たびたび赤信号を無視して突っ走る。国道をサーキットと間違えているような走りだ。私、何度か我慢できずに「急がなくていいっ!」と声を荒げたものだ。
 某日、他の運転手に事情を話した。すると仰天の事実が。
「あいつはね、優しい声を掛けてほしいんですよ。気づいているでしょう。彼がブラジャーをしているのを」
そういえばシャツ越しの背中に横に伸びたひもみたいなものがあったのを思い出した。
「でね、赤信号で停まったら、そのひもを引っ張って、“おばあちゃん、いいものを付けているね”と言ってください。すごく機嫌がよくなりますよ」
 おじいちゃんに見えた運転手は女装趣味の持ち主だったのである。普段は女装で生活しているが、勤務中は服務規程に引っかかる(当たり前だ)ようで、下着で我慢しているとか。
 そしてその日は来た。いつもと同じように乱暴である。赤信号、思い切ってアドバイス通りにやった。引っ張ってパチン…すると「そうですかあ、いいですかあ」。語尾が妙に甘く、顔がデレデレしている。青に変わって発進。運転が優しい。まるで別人のような走りだった。
人間、褒められたらうれしいのはわかるが、しかしである。その後、2、3度乗って同じことをしたが、いつの間にか姿が見えなくなった。別の運転手に消えた事情を聞いても、「へへへ…」とごまかすばかりだった。
 10年間のデスク生活でずいぶんとタクシーを利用した。別のエピソードはまたの機会で。(了)