◎球界を救った選手会(4)-(菅谷 齊=共同通信)

◎選手の生活保障制度を確立
 選手会が発足したのは1946年(昭和21年)11月中旬のことだった。
 委員には巨人の川上哲治、千葉茂、阪神の若林忠志、藤村富美男をはじめとする各チームの主力選手が顔をそろえた。南海の鶴岡一人、阪急の野口二郎、青田昇、中日の杉浦清、金星の坪内道典、セネタースの白木義一郎、太平の白石勝巳らである。
 いずれもプロ野球の発展に貢献したスター選手だった。この布陣から本気度が分かる。連盟から会長や審判員も総会に出席している。
 「これで八百長はなくなった」
 委員たちは成果を強調した。ただし、選手会が発足し、チームが独自に八百長に監視の目を向けたから、という単純な理由ではない。
 最低賃金のアップと10年選手制度を作ったのが生活苦の選手たちにとって“救いの手”となった。
 「八百長試合に加担するのは生活ができないからで、生活が安定すれば余計なことはしないはず、ということから制度を考えた。確かに効果が出て、八百長試合はなくなり、健全な球界になった」
 後年、委員はそう述懐している。
 とりわけ10年選手にボーナスを支払う制度は大きかった。連盟との交渉を重ねて球団から「10年選手の功労に2万円の報償を出す」ことになった。結果、翌年から疑惑の試合は姿を消した。
 八百長を行った選手を選手会がクビにできる、という厳しさだったから言い訳が効かない。
 このように選手たちが球界を守った。プロらしいプレーを見せることによって観客が増え、経営は安定すると確信していた行動だった。連盟、球団がそれに同調したというわけである。
 「あのとき選手会ができなかったら、プロ野球界はどうなっていたか。八百長が蔓延したらと思うとゾッとする。プロ野球解散という憂き目に遭っていたかもしれない。その筋の人間が球場に入ってきて、われわれの見ている前で加担した選手をぶん殴っていたんだからな。恐ろしい事態だった」
 委員の多くは必死で守ったことを語っている。こういう実話を、現在の選手たちがどこまで知っているだろうか。(続)