長嶋茂雄、幻の大洋監督(1)

▽グラウンドを離れ、海外へ旅

 1980年(昭和55)、巨人軍を解任された長嶋茂雄は、日本の野球界に背を向け、キューバ、ヨーロッパなど亜希子夫人を伴って旅に出た。
 キューバからの絵はがきにはこう書かれてあった。
 「いま、非常に貴重な体験をさせてもらっている。キューバ・スポーツ省の人々と会えたし、野球の試合も好ゲームを観戦している」
 そしてヨーロッパから。
 「パリからウィーンに来ている。マドリッドの闘牛の迫力は想像以上で、大変興奮した。またトレドの街はタイムカプセルに乗って中世に戻ったような気分にさせるところで、とても楽しく見物している」
 翌81年6月、ヨーロッパ旅行から帰ったミスターから「こちら(日本)の野球はどうだ」と聞かれたので、こう伝えた。
 「原辰徳が腰を痛めている」
 「中畑清は負傷欠場中」
 ミスターはすぐ愛弟子の中畑に見舞いの電話を入れた。
 中畑は後日、興奮してその模様を振り返って言った。
 「いやあ、長嶋さんから見舞いの電話をいただきました。監督を辞めてから長嶋さんと話をしたのは、あれが初めてでした」

▽大洋の監督要請で大騒ぎに

 ミスターが中畑に電話をした翌7月16日、かねてから入団要請をしていた大洋漁業から、ベーリング海で捕れた紅鮭とオーナーの親書がミスターのもとに届けられた。巨人監督の解任直後、長嶋・大洋会談は何度かあったが、次第にマスコミのマークがきつくなり、世の中の目も厳しくなったこともあって、両者は当分会えない状況になっていた。大洋としては、親書を通じて気持ちを伝える以外になかった。
 8月に入ると、大洋はミスターに、満足する契約金と年俸の検討を始めた。
 その間、マスコミは「長嶋、大洋と接触」と報じ、9月8日には一部夕刊紙に「長嶋、大洋決定」との記事が出た。長嶋家には花が届いたり、祝電が入ったり、と大変な騒ぎになった。
 大洋もそんな騒ぎになったことに恐縮し、17日の夜、お詫びの親書をミスターに届けた。大洋本社も田園調布の長嶋家周辺も連日、大変な騒ぎになってしまった。
 この騒ぎが収まったのは10月になってからだった。7日、ミスターは大リーグ取材で渡米する際、こう言い残していった。
 「大洋の騒ぎも収まったけど、どうしてああいうことになるのだろう。大洋も野手はなんとかなる。野手が2人欲しい。それにどうだろう、土井淳さん(当時監督)の後、関根潤三さんが監督でもしたら最高なのに」-。(続く)