第3回

▽ルースの不参加

「来日してプレーしていただけないか」
 正力松太郎の使者がベーブ・ルースに打診した。
 「・・・無理なんだ」
 ルースの返事はつれなかった。理由は、映画出演のため撮影の時期と重なる、というもので、映画会社と出演契約しているから仕方なかった。来日するつもりだったが、撮影が延びて乗船に間に合わなかった、という説もあるが、ちょっと考えにくい。
 常識的に考えれば、主役が参加しないのならば、この話は中止になるところだろう。ところが正力はガンとして考えを変えなかった。
 「それでも、やる」
 正力のすごさである。社内の反対論を封じた。
 この1930年ごろ、確かに日本では野球が大ブームとなっていた。とりわけ中等野球(高校野球)は年ごとに盛んになり、満州、朝鮮、台湾からも代表チームが甲子園の土を踏んだ。大学野球も熱を帯びていた。
 日本の国民はプロ野球を受け入れてくれる、と正力は絶対の読みと自信があったのだろうと思う。

▽ずらり、殿堂入りメンバー

31年(昭和6)秋の正力招へいによる日米野球の米国チームは、通称「ハンター野球団」といわれる。ルース参加が危ういことが分かったとき、ハーブ・ハンターという人物が日本での野球興業を模索している情報を得たことが実現に結び付く。
 ハンターはニューヨーク・ジャイアンツでプレーした元大リーガーで、20年(大正9)にオール・アメリカン・ナショナルズの外野手として来日し、日程が終了すると一人日本に残り、学生たちに指導。さらに22年には大リーグ選抜チームを引率して再び来日するなど、日本での野球ビジネスに強い関心を持っていた。ハンターもまた、日本の野球の将来性を確信していたのである。
 正力-ハンターの組み合わせが成立した。監督を務めるハンターのカオは大したもので、来日メンバー(14選手)を見るとよく分かる。
 レフティ・グローブ投手、ミッキー・カクレーン捕手、ルー・ゲーリッグ1塁手、フランキー・フリッシュ2塁手、アル・シモンズ外野手はいずれも後に殿堂入りしている大物である。このシーズン、ヤンキースのゲーリッグは46本塁打を放ち本塁打王とMVP、アスレチックスのシモンズは打率3割9分で首位打者を獲得した。グローブは31勝、フリッシュはワールドシリーズ優勝のカージナルスの主将だった。
「ジャイアンツ」(巨人軍)の名付け親で、日米の橋渡しで功労のあったフランク・オドールもいた。

▽日本チームはファン投票で選抜

大リーグ選抜チームのメンバーを見たとき、迎え撃つ日本は実力選手をそろえなければ話にならない。いい試合を見せれば、ファンは野球にさらなる理解を示してくれるはず、というのが正力の思惑だった。
 「全日本はチームはファン投票で決めよう」
 正力の才覚はここでも発揮された。ファン投票は今では当たり前のように行われているが、当時は画期的なアイデアだった。新聞というメディアの特徴を生かしたわけで、ファンにすれば、オレたちが選んだ、ということになり、オールジャパンの感じになったのだろう。
 選ばれた選手は27人。
 投手=伊達正男(早大)宮武三郎(慶大)若林忠志(法大)辻猛(立大)渡辺大陸(明大) 捕手=久慈次郎(早大出)小川年安(慶大)井野川利春(明大) 1塁手=山下実(慶大出)松木謙治郞(明大) 2塁手=吉田金次郎(明大)三原修(脩、早大) 3塁手=佐伯喜三郎(早大)角田隆良(明大)水原茂(慶大) 遊撃手=苅田久徳(法大)富永時夫(早大) 左翼手=松井久(明大)井川喜代一(慶大) 中堅手=桝嘉一(明大)楠見幸信(慶大) 右翼手=堀定一(慶大)永井武雄(慶大出) 代打=佐藤茂美(早大)森茂雄(早大出) 代走=田部武雄(明大)斉藤辰夫(立大出)
 最多得票は捕手の久慈で12万4000票余りを獲得した。監督は市岡忠男。
 選手はいずれも当代のスタープレーヤーで、そのうち三分の二が後に誕生したプロ野球に入り、草創期を背負った。(了)