第3回 「禅とカーネギー」

▽正眼寺で身につけた「禅の話」

もちろん、川上監督が58年の10月から通っていた岐阜・正眼寺の梶浦逸外老師から語られたお説教や経験なども話したと思われる。
 正眼寺へは、長嶋が入団して4番の座を譲り、現役の晩年に差しかかって揺れ動いているとき元勧銀総裁の石井光次郎氏と巨人のオーナーで読売新聞社の正力松太郎社主の紹介状を持って入門を願い出たのだったが、「ザ・マン川上哲治」(プレジデント社)によると梶浦禅師は一度、「何しに来たのか、ただ線香花火式にやってもダメだ。本当に一生をかけて修行するんなら来てもいい」と入門を拒否している。
 すると1カ月ほどしてまたやってきた。
 「正力さんらの紹介状を持ってきたのだし、二度もくるのなら」
 と身柄を預かることにしたのだという。このときの事情を梶浦禅師はこういっている。
 「努力していると失敗することがある。それでも真剣にやると、妙を得る。その妙を続けているとまた失敗が起こる。それではいかん。もう一つ真剣にやって、絶妙。夢中。球なし、というところへいかなきゃあかん。そこまでやるなら、やはり1年や2年参禅してもだめだ。妙を得るところまで頑張らなきゃあかん。真剣、妙剣、絶妙剣と夢中のとこまでいくなら来てもいい、というと、やります、といった。だが、その上にまだ、無があるのじゃ。無他、他は無し、というとこまでいかなきゃいけない。死ぬまで修行です」
 「こんな話をすれば、普通の人なら、なんぼ偉い坊さんの話でも、わかるもんかと聞き流してしまうけど、その点、川上さんは噛んで噛んで噛み砕いて自分のものにされた。正眼寺が心の古里だと川上さんが仰った言葉の裏には、そういうものがあるんですね」
 やっと許された参禅を、以来、20年間続けた。そこでどんな修行をしたのか、簡単に「ザ・マン川上哲治」から引用しておく。
 雲水の一日に過ごし方である。
 「奥美濃の初冬は日中の最高気温が4度。明け方は氷点下3度と厳しい。氷が張り粉雪が舞う。午前4時、一枚布団をはねのけ、すぐ結跏跌座。警策が肩に鳴る。カユと梅干しの粥座(朝)、麦飯にみそ汁と漬物の斎座(昼食)の間は掃除と講義。午後から10時半の解定(かいちん、消灯)までは、朝昼の残り物の雑炊だけの薬石(夕食)を除いて、座禅に没頭する」
 これらの自分の経験から得たエキスをミーティングの席で話した。

▽カーネギーの「人を動かす」

ミーティングはキャンプで毎晩開かれたが、シーズン中は試合前に毎日「幹部会議」と「全体ミーティング」を開いた。そこで監督がどんな話をしているのかが担当記者の取材目標でもあった。
 あれは71年だったか72年だったか、私は巨人の宮崎キャンプの宿舎・江南荘で、女将の浅野兌子(えつこ)さんに「監督が大広間で開くミーティングで何を話すか知りたいのですが」と聞いたことがある。
 女将は「知らないわよ、その席には入れないんですもの」とけんもほろろだった。当然だろう。
 そこで「じゃあ、大広間にはいるとき、何か持っていたか見ておいて教えてください。ノートを持っていくのか本でも持っていくのか、なんでもいいからよく見ていて教えて欲しい」と頼み込んだ。女将は「そんなことできないわよ」と言いながらも、ある日、吉報をもたらしてくれた。
 「夕べは、本を持っていたわよ。大きな字でカーネギーとか書いてあったわよ」
 やったあ! である。早速、宮崎市内の本屋へ走って、当時、人材育成や人事管理の教本になっていたカーネギーの「人を動かす」と「道を拓く」を買ってきた。その中のどこを読んだのかは分からないが、それを参考に講話したに違いない。もちろん原稿に書き入れた。
 デール・カーネギーはそのころアメリカで自己啓発の第一人者といわれていた学者で、著書はベストセラーになっていた。そのカーネギーの「人を動かす」のエキスを紹介すると、たとえば、「成功の秘密」である。
 ・15%の専門知識
 ・あとの85%は、①考え方を表現する能力 ②リーダーシップの能力 ③相手の熱意を引き出す能力
 というノウハウや、「人を動かす3原則」とか「人に好かれる6原則」などが書かれている。
 川上監督はこれらの中から「これだ!」と思うところを読んで聞かせたに違いない。川上監督は、他球団のどの監督もやっていなかっただろうカーネギーをプロ野球に持ち込んだのだった。(了)