(3)野球とスポーツ紙-(蛭間豊章=報知)

-野球文化學會「ベースボーロジー」提携―

▽打率早見表を片手に手作りの日々

野球の記録報道も徐々に変わってきました。共同通信のコンピューター化によって、日刊スポーツ以外、テーブル、経過、打撃、投手成績に勝敗表は共同任せになっています。

実は、私が入社した当時は共同と契約していない時代、私はまるまる2年間は打撃30傑作り専門の日々を送っていました。

きょうはこんなものを持ってきました。これはベースボール・レディ・レコナーといって打率の早見表です。入社当時は卓上のコンピューター、計算機はお店のレジのような大きなものが一台きり。それはより早く紙面用に提出する勝敗表担当者が使うもの。30傑担当の私は入社すぐ、記録の神様と言われた当時の記録部部長・宇佐美徹也からこれを渡されて、打率を書き込んでいきました。

そんな日々を長く送ってきたので1990年前後でしょうか、共同とオンラインとなって、勝敗表、打撃30傑、投手15傑を作成しなくなってほっとしました。

▽長嶋プロ入りでプロ野球記事が大半に

また、調べてみますと、今では当たり前のようにテーブルに入っている投手成績。50年当時は先発完投が普通だったこともあり、打撃成績は今とほぼ同じですが、投手成績がなかったのも今回、昔の紙面を見るようになって初めて知りました。

報知では52年まで一切無し。53年に継投策のケースのみ個人の安打、回数、奪三振、与四球で失点はなし。56年から継投策チームのも上記項目に自責点が加わって、完投投手にも自責点だけ掲載されました。

報知で現在のような投手成績表になったのは59年。長嶋茂雄入団でプロ野球の記事が大半を占め始めたからだったようです。

ちなみに投球数は60年から入りました。現在は、日刊スポーツが先鞭をつけた打撃結果が分かるボックススコアのスタイルになって、各紙とも試合経過などは割愛され、ヒーロー原稿全盛の時代になってきました。いわゆる試合経過、いわゆる戦評が死語になってきたわけです。

▽全盛時代からIT時代の新たな挑戦へ

2017年12月5日に行われた東京運動記者クラブ懇親会で米寿の祝いを受けた報知OBの田中茂光さんは、夕刊紙からスポーツ紙にくら替えした時の生き証人。田中さんは「スポーツ紙転換は、売り上げが伸びなかった夕刊紙の報知が生き残るための苦肉の策だった。プロ野球の2リーグ分立が追い風になった」と話してくれました。

報知の発行部数は50年6月平均で10万1365部。それが10年後の60年には37万3416部、大阪発刊後となる70年83万4588部。80年は江川事件があったにもかかわらず119万9469部にもなりました。

ギャンブル面の拡充などもあって、スポーツ紙のパイが格段に増えていったのです。ところが、インターネットが開発されて広告がじわじわと減り、それに輪をかけるかのようにスマホの驚異的な普及で売り上げも落ちています。

実際の数字はもっと少なく、小さくなったパイを食い合っているのが現状です。米国でも90年1月31日に「ザ・ナショナル」というタブロイドの日刊スポーツ紙がニューヨークを中心に発刊されました。メジャーでは1試合1ページの要領で詳しく掲載されていましたが、翌年6月13日で廃刊。時差のある米国、そしておらがチームだけなら地元紙で十分というお国柄でわずか1年半の運命でした。

それを考えれば東京だけで6紙がひしめきあう東京で48年間、1紙も廃刊せずに継続しているのは奇跡といえますが、それもあと何年持つのか危機感を募らせています。(続)