新人選手の獲得、活躍あれこれ(1)

◎歴史を変えたドラフト制度の導入

「出席者」司会・菅谷齊(共同通信)高田実彦(東京中日スポーツ)真々田邦博(NHK)田中勉(時事通信)中野義男(フジテレビ)露久保孝一(産経)島田健(日本経済)荻野通久(日刊ゲンダイ)西村欣也(朝日)山田収(報知)深沢弘(ニッポン放送)

2018年8月、夏の甲子園100回大会が行われ、節目にふさわしい好選手が数多く注目された。プロ野球が彼ら高校生をはじめ、大学、社会人、独立リーグの選手を獲得するのがドラフト(新人選択)会議である。この制度は自由競争からの大変革だった。歴史的な出来事、新人選手の活躍などを語り合った。

▽導入の狙いは契約金の高騰を防ぐため

司会・菅谷 ドラフト制度が導入されたのは1965年。11月17日に第1回が開かれ、132人が指名された。この年から始まった巨人の9連覇時代に焦点を絞り、新制度初期の実情を振り返ってみたい。

高田 この制度は西鉄(現西武)の代表が提案したんだ。

荻野 米国のアメリカンフットボールの制度を取り入れた。

露久保 導入の理由は戦力の均衡、契約金の高騰を防ぐためだった。

西村 最大の狙いは契約金の問題。慶大から南海(現ソフトバンク)入りした渡辺泰輔投手、上尾高から東京(現ロッテ)に入った山崎裕之内野手の契約金が高かったからね。

真々田 5000万円とかいわれていたね。

荻野 山崎は手取りだったらしい。本人は、自分がドラフト制度導入のきっかけ、というふうに言われているが、渡辺の方が高かったと言っていた。

山田 ドラフト制度になってから契約金の上限が1000万円になった。58年に巨人入りした長嶋茂雄は1800万円といわれているから、それより安くなったことになる。

菅谷 導入前までは大学中退でもプロ入りできた。在学中にプロから声をかけられたが、卒業まで待てばもっと条件がよくなるとして断ったらドラフト制度になった。
早く入団しておけば、と悔やんだ選手は少なくなかった。

高田 自由競争時代は札束が乱れ飛んだというからね。

▽スカウトが頼ったメディアの情報

菅谷 ボストンバッグに札束を詰めて選手を獲得した時代がドラフト制度の導入で一気に時代が変わった。一番影響を受けたのはスカウトだった。

島田 ドラフト制度の導入で事前交渉ができなくなった。

露久保 内緒の交渉がダメになったというわけだ。

田中 情報収集も変わったのではないか。

中野 メディアの情報は大きかったと思う。

山田 当時は活字媒体がかなり選手の情報を持っていた。スカウトが逆に新聞記者を取材していたという話がある。

西村 指名するわけだからスカウトの力量が出る。

露久保 確かにそうだ。たとえばロッテ。三宅宅三スカウトなど三冠王3度の落合博満を4位指名で取っている。

高田 自由競争時代よりスカウトは楽になった、といわれているが、情報合戦となると、新たな苦労が生まれたということなんだ。

荻野 間違った情報で動いたらとんでもないことになるからね。

▽初期はあまり取り上げなかったテレビ、ラジオ

菅谷 自由競争時代はメディアの扱いは様々だった。電波はどんな対応を取ったのか。

真々田 第1回の会議は東京の日比谷で行われたが、テレビはそんなに扱わなかったと思う。

中野 番組的には重要とはなっていなかった。大きく報道しなかったのは事実だ。1社だけ大きく取り上げていたと思う。

真々田 ニュースの中で取り上げる程度だった。

深沢 ラジオもニュースの中でだけだった。

中野 指名された選手のいる地方局から映像をもらっていた。

深沢 会議といっても今とはスケールが違って小さかった。雑誌の写真に載っているけど、一般会社の普通の会議みたいだった。

菅谷 どんな状態…。

深沢 12球団から30人ぐらいが集まって指名していた。取材するような状況ではなかった。

菅谷 いつごろから大きく取り上げるように…。

中野 プロ野球機構から、報道してほしい、と要請があった。

真々田 そうそう、抽選したのかな、何社かで。

中野 NHKを含む4社だった。

深沢 ラジオが完全中継したのは後になってから。有望選手についてだけ扱った。つまみ食いみたいな取り上げ方だった。それから1位指名だけ1時間ぐらい中継したと思う。(続)