第6回 「東京スタジアム」(1)―取材日2007年7月17日
▽下町の安打製造機は元祖背番号3
下町情緒豊な東京荒川区の南千住に“下駄履きで通える”と親しまれた野球場があった。大毎オリオンズの本拠、「東京スタジアム」である。
一夜城のように誕生し、わずか11シーズンで姿を消した幻想的な球場だが、当時では斬新な設備を備えた「ボールパーク」と言えた。ここに求道者・榎本喜八の伝説はいまも残っている。
JR常磐線の南千住駅から徒歩で15分、千住間道の右手に荒川総合スポーツセンターがある。「光の球場」「娯楽の殿堂」と親しまれた東京スタジアムはこの一帯にあった。しかし、今はスタジアムの面影はまったく見当たらない。狭い路地に植栽が茂っていた周辺の下町風景も窺い知るよしもない。
2007の夏、昼時に老舗の蕎麦処「おおもり」の暖簾をくぐった。店はスタジアムの三塁側席と左翼席を仕切る通路を出た辺りにあって、時々、ファールボールが飛び込んできたそうだ。2代目店主の大森啓市(58歳)は懐かしそうにこう話す。
「僕たちにとって『背番号3』は榎本喜八さんでしたね。長嶋茂雄さんではなかったな」
草野球の子供たちは誇らしげに背中に「3」を背負っていた。
▽新人で開幕戦5番、ベンチで座禅
榎本喜八は1936年12月生まれで、早生まれの長嶋茂雄より1学年下だが、早稲田実業を卒業してすぐプロ入りした。58年に長嶋が巨人入りしたときは、既に「ミサイル打線」と呼ばれた大毎の看板選手だった。ところが、72年に引退すると球界との縁をぷっつりと断ってしまった。
長嶋の前の「背番号3」ってどんな選手だったのか。若い野球ファンには伝説の選手でしかなかろうが、伝聞も含めて逸話には事欠かない。
3割5分1厘で2度目の首位打者を手にした66年のオフ、日米野球の試合前、榎本はベンチで座禅を組んだ。榎本に川上哲治監督が声をかけた。
「試合に出られるか?」
返事がない。沈思黙考の榎本には世俗の声など耳に入らなかったのだ。ある時はベンチ裏の鏡に向かってバットを構え、30分も動かなかった。集中力を高めるための彼流の儀式だったのだろうが…。
打撃の師匠、荒川博(大毎、巨人コーチ)はある年の暮れ、榎本の家族からの連絡で彼の自宅へ駆けつけたことがある。猟銃を持って部屋に篭っていた。襖を開けたとたん一発発射した。弾は鴨居に大きな穴を空けた。打てなかった日は試合後にロッカーや自宅でもよく荒れたと聞く。
新入団の開幕戦でいきなり5番を打ち、新人王。現役18年で2314安打をマーク、川上、山内一弘に次いで3人目の2千本安打を達成した。しかし、見事な実績なのにコーチの声も掛からず、名球会にも加入していない。下町の「安打製造機」は「奇人、変人」のイメージが定着したまま球界から消えてしまったのだ。(続)
▽
引退して数年経ったころ、「榎本が現役帰するらしい」という噂が流れた。一人黙々とジョギングする姿が見かけられたからだ。蕎麦屋の主人、大森もそんな榎本の姿を度々見かけた。
「引退して5年くらい続いたかな。榎本さんは野球帽にジャージ姿でね、店の角まで来て球場に一礼して帰っていった」
多い時は1日に3度も。夜中も見かけた。
「東中野の自宅から球場まで30キロはあるでしょう。どんなルートで走ったのかなぁ」
ある時、トレーニングの訳を尋ねると、
「コーチになったときのために体力をつけておかなきゃ」
真顔でそう言ったものだ。
榎本は合気道を打撃に採り入れた荒川の一番弟子で、王貞治(現ソフトバンク会長)の兄弟子にあたる。高校3年の12月、「プロになりたい」と先輩の荒川を頼ってきた。当時の別当薫監督に頼むと、
「今年は16人も採った。遅い」
と、にべもなかった。ところが荒川が頼み込んで打たせて見るとガンガン打つ。びっくりした別当はその場で「入団OK」を出し、契約金35万円、月給3万円で入団させた。
荒川の榎本と王の対比論が面白い。
「王の猛練習が伝説的だけど、榎本は王の2倍は練習したなあ。もし、榎本に王くらいの人間的なゆとりがあったら4千本は打っていた。逆に王が榎本くらい練習していたら868本塁打どころか1千本は打ったね」
猛練習で知られる王なのに、榎本にはかなわない、というのだ。榎本はナイター終了後に荒川宅を訪れ、鬼気迫る形相でひたすらバットを振った。抜群のスイングスピードはこうした鍛錬で培われていった。
「奴はバットを持った宮本武蔵だな。最高の弟子です」
荒川の榎本評である。
榎本はよく「『臍下丹田』(せいかたんでん)で打て」と言った。ヘソの下10センチのところに「気」が集まる個所があり、ここに精神を集中することで余分な力が抜ける。それが打撃の極意だと説いた。彼と14年間に渡って328打席対戦した稲尾和久(故人・元西鉄)は、
「榎本さんはボールを見送るとき体が微動だにしなかったな。打席の彼と視線を合わそうとしても向うは僕の額辺りを見ている。何を考えているのかさっぱり読めなかった。打たれたことしか印象にない」
と言ったことがある。榎本が現役最後の年、西鉄の監督だった稲尾は彼を引き取った。
「打撃の極意をじっくり聞こうと思ってね。で、あるとき、ベンチで二人になったので、『榎本流の打撃のポイント』を聞くと、返ってきた言葉が『来た球を打っただけ』だった。がっかりしたよ」
と笑った。榎本と高校時代からのライバルで仲がよかった土橋正幸(元東急のエース、解説者)は、
「嫌な打者だったな。ボール球に手を出さないんだから」
と言う。ある試合で、捕手が際どい判定にクレームをつけると球審は、
「榎本が見送ったからボールだ」
事もなげにそう言ったそうだ。選球眼のよさを物語るエピソードである。
榎本にもう一度逢いたかった。野球関係者に尋ねても彼の消息を知る人はいなかった。07年7月中旬のある日、中野区内を探しまわってやっとのこと榎本宅を突き止めた。インタホン越しに声をかけた。体調が思わしくないらしく細い声だ。それでも逢えない理由を懸命にしゃべった。必死さは伝わってくるが言葉がはっきり聞き取れない。確かに理解できたのは、
「お役にたてなくて、ごめんなさい、ね」
のひと言だけだった。
求道者のストイックな世界から解き放たれ、ごく普通の老人として平穏な毎日を送っているのだろう。聞きたいことは山ほどあった。インタビューが出来なかったのは残念だが、彼の肉声を聞けて何か救われた思いだった。(了)
「東京スタジアムメモ」
東京都荒川区南千住。1962年6月~72年10月。両翼91.4m、中堅121.9m。内外野とも天然芝、内野スタンドは鉄筋コンクリート2階建て、2万9856人収容◆52年に毎日と大映が合併して大毎オリオンズとなりン61年に永田雅一オーナーが竹中工務店に発注。大リーグ、ジャイアンツのキャンドルステッィクパークとドジャズのドジャーススタジアムがモデル。建設は木下藤吉郎の墨俣城を思わす分担責任制の突貫工事でわずか10カ月で完成した◆『美しい球場、夢を与える楽しい場所」にこだわる永田オーナーの意向で、夜間照明塔は斬新な2本の鉄柱によるキャンドル式(左翼の塔は観客席の中にあった)カクテル光線を使用し常磐線の日暮里駅あたりから明かりが見え、「光の球場」とも言われた。通路はバリアフリーのスロープ式、ゴンドラシートや内外野席とも一人一席を採用、内野は全席指定にした。地下にはボウリング場やビリヤード施設も備え、冬季は1階を使ったスケート場もあった◆ロッテとの業務提携で69年にロッテ・オリオンズとなり、この年の巨人との日本シリーズは第3戦を浩宮さまが観戦した。(了)