第8回 「猛練習」

▽“指名選手”として鍛え上げる

コーチ1年目の1959年(昭和34)の宮崎キャンプのスケジュールは、水原監督が川上コーチの意見を採り入れて作ったものだった。そのメニューについて、関三穗氏は著書「がんばれ!!ジャイアンツ」で、当時としては「大胆なスケジュールだった」と書いている。
 起床     8時
 朝食     8時半
 指名選手出発 9時半
 宿舎出発   10時40分
 昼食     12時
 練習終了   15時
 夕食     18時
 門限、就寝  22時

このスケジュールは、現在の各球団が行っているものとほぼ同じであるが、この当時は斬新だった。ことに、この中の「指名選手出発」に川上コーチの神髄があった、と氏はこう書いている。

「十時(ととき)、加倉井、坂崎、難波、土屋、竹下、森、安原、王の名前が見える。川上コーチが彼らを一軍が到着する前に体操、キャッチボール、トスバッティングを済ませ、フリーバッティングをやらせていた。打撃練習は午前中にやったから午後はやらなくていいというのではない。午後は午後でバッティング練習をした」

「マシンを人任せにしないで自分でボールを入れ、あるときは叱咤(しった)し、あるときは教えながらやる。選手は次第に川上のやり方に引き込まれていった」

「川上コーチは、ボールの外側半分を打つような気持ちで、球に向かって上から叩きつけろ。日本人はみな手首が強い。それを活かすためにもボールにバットをぶつけるようにしてパッと手首を返せ」

コーチ1年生のときから練習の鬼だったのだから、36年に監督になってからは、巨人が練習、練習また練習のチームになるのは当たり前だった。

▽時間をかけて反復練習

私は川上巨人の初期は直接取材はしていないが、先輩記者からこんな話を聞いたことがある。

「川さんは、練習すれば疲れるが、疲れるまでやるのは序の口で、疲れたらその疲れに鞭打って限界に向かって挑戦する。そこまでいって初めて何かが身につく。しかし本当の力は、そこからなお体力気力を振り絞っていって、突き抜けるところでつくのだ、といっていたね」

聞いていて、たまったものじゃないな、と思ったり、野球選手は野球が好きなのだから好きなことをとことんやれて幸せじゃないか、とか、これがスパルタということなのか、などと思ったものだった。

というのは、ヤクルトの監督だった別所さんがいっていた「スパルタの定義」も同じようなものだったからだ。「スパルタ将軍」といわれていた別所さんがいう定義は、

「練習していて疲れて倒れる。人間だから当たり前。その倒れたところからまた立ち上がって練習する。これは序の口。また倒れる。そこでまた立ち上がって練習する。これがスパルタというものだよ」

といっていた。2人は同じことをいっていた。

川上さんは「練習には2つの段階がある」と言って、

「頭で覚えた基本や理論などを実際に繰り返しやる段階が心技一体」

ここからさらに進んで、

「繰り返しやって完全に頭で覚えた理論や知識と体で覚えた技や体験の2つが一緒になってこそ、はじめて知行一致。そこまでいかなければいけない」

という。

毎日繰り返されるミーティングや猛練習は、この「知行一致」に到達するためで、それには「時間をかけて反復する以外にない」と思っていた。いかにも凝り性な監督であるが、凄いのは、そう思ったらなにがなんでもやり抜いてしまう執念であるだろう。(続)