第17回 全力プレーとファンサービス(菅谷 齊=共同通信)
▽日本中に知れ渡ったスクールボーイの快投
沢村栄治の快投はビッグニュースだった。試合翌日の主催、読売新聞の紙面は興奮に満ちていた。
「沢村無類の出来栄」
「大投手戦を演ず」
「ゲーリッグ貴重の本塁打」
大きな見出しが並んでいる。サイドには、
「正に大リーグ級 日本一の快投 天晴れ沢村」
このサイドの筆者は河野安通志といい、早大出身で日本初のプロ野球チーム「芝浦協会」を立ち上げた主要人物である。
このスクールボーイ沢村の投球は、瞬く間に全国に知れ渡り、大リーグすなわちプロ野球という職業の存在が理解されたといっていい。河野たちの野望が大きく膨らんだともいえた。
監督のコニー・マックは、
「日本は必ず野球が盛んになる」
そう言い残した。と同時に、日米の野球スタイルの違いを指摘した。アメリカは打撃重視、日本は守備重視という点である。
マックが言わんとしたのは、野球は点を取る競技だから、攻撃を最重要視するという原理原則を述べたものだった。考えることを好み、勝利への作戦をよく練る日本にすると、おそらく異論があっただろう、と思われる。
日本に残した最大のものは、
「プレー・ハード」
という心構えだった。全力でプレーしろ、という意味で、これは入場料を払って見に来るファンへの礼儀といえた。
▽大使も脱帽したルースの役割
注目のベーブ・ルースは、打率4割8厘、本塁打13本と全米チームの中で最高の成績を残した。このとき、ルースは38歳で、引退寸前だった。それでもこれだけの豪打を放ったのだから、すごい打者としかいいようがない。
ルースの残したものは打撃成績だけではない。
当時のアメリカ駐日大使が言った。
「ルースは、私が逆立ちしても及ばないほど、効果的な大使である」
確かに、日本人は、ルースの名前は憶えても、大使の名前を気にした者は限られていただろう。
11月26日の小倉での試合は、朝から雨が降っていた。かなり激しかった、と伝えられている。そんな悪コンディションでも、大リーガーたちはユニホームを着、グラウンドに出た。
左翼を守るルースは、なんと傘をさして守備位置についた。
ファンサービスである。
ファンが大喜びしたことはいうまでもない。傘は、日本独特の番傘。歌舞伎など古典芝居に使われるもので、番傘を左手に持ったルースの写真は時代考証
になる。大使ではできない芸当である。
このルース人気と、ルースを三振に切って取った少年沢村。まさにドラマである。物事が動くときはこのようなドラマが絶大な後押しとなる。正力松太郎がこの機を逃すはずはなかった。(続)