第10回 「駒沢球場」(取材日2007年3月上旬)

その昔、東京の外れに砂塵が舞い藪蚊が飛び交う「暴れん坊集団」の根城があった。土盛りの外野席にデコボコのグラウンド、そして名物の乱闘騒ぎ。東映フライヤーズの駒沢球場である。

▽合宿は木造病院の改造

史上ただ一人、3000本安打を放ったスラッガーはここから育った。
 あれから半世紀近く経つ。張本勲の若き日の勇姿に思いを馳せながら、東京・世田谷区の駒沢公園通りを散策した。
 フライヤーズの合宿所、「無私寮」があったのは、公園西口の近くである。古い病院を改造した木造建てで、食堂の入り口には「診察室」の木札がそのまま残っていた。この風変わりな寮は、東映が駒沢から神宮球場に本拠を代えてから、バスの営業所やレストランになったりした。
 今は鉄筋建てのマンションに姿を変えている。やはり通り沿いにあった選手たちのデート場所の喫茶店は、一時ラーメン屋になっていたが、今は空き家だ。
 寮の正面にあった自転車屋は、いまも健在で、2代目の榎本悦夫、邦男の兄弟が継いでいた。二人とも子供のころから球場界隈を遊び場にして育った。“駒沢っ子”だ。
 「駒沢球場は現在の第2球技場や補助球技場辺りにあってね。歩いて4,5分かな。試合が終わると選手の用具を担いで、寮までいっしょに帰ったりした。張本さんなんか、打てないとき寮の鏡をバットで叩き割ったことがあったね」

▽3000安打張本の原点

合宿所には23歳から18歳までの若手が30人ほどいて、張本も入団した1959年から3年間をこの合宿所で過ごした。彼にとって無私寮は、ただ寝泊りする合宿所ではなく、「道場」でもあった。ここで終生の師、打撃コーチの松木謙治郎の薫陶を受けたのだ。
 松木は阪神創生期の強打者で、後に東映の監督も務め、名伯楽といわれた人物である。新人・張本の打撃を見るなり、ずばりこう指摘した。
 「右手の力が弱いな」
 右手の弱さには訳がある。張本の右手は小指と薬指が癒着したままだ。親指と人差し指も内側に湾曲している。
 4歳の冬、焚き火に倒れ込み、右手をやけどしたのだ。
 左打ちの張本にとって小指と薬指はバットを鋭く振る上で最も重要な個所である。後に大打者としてならした彼の右手には傷痕を包み隠した黒い手袋が印象的だった。グラブも特注品だった。
 新人として参加した2月の伊東キャンプ(静岡県)で、師匠と二人三脚の「右手強化」が始まった。全体練習の終了後、松木のトスするボールを右手一本で打つのだ。寮でも庭の隅にテントを張って二人の特訓は続いた。雨の日も試合後も松木はボールをトスしてくれた。
 今では見慣れた練習法だが、このトスバッティングは松木と張本が「元祖」である。(続)

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「駒沢球場メモ」
東京都世田谷区駒沢公園。1953年9月~61年。両翼91・4m、中堅122m、2万人収容。55年6月ナイター設備設置◆東京急行が建設し東京都に寄贈した。球場開きは53年9月27日。東映の前身、東急フライヤーズが53年末に本拠を後楽園から駒沢に移し、54年2月に東映になってそのまま引き継いだ。東京五輪のため61年のシーズンを最後に閉鎖された◆61年の東映は快調に飛ばし巨人相手の日本シリーズが実現しそうになったが、最後に南海に優勝をさらわれ幻となった。この球場でのプロ野球公式戦はパ・リーグが667試合で561本塁打が記録され、セ・リーグは18試合で23本塁打が出ている◆当時の交通アクセスは渋谷からの路面電車とバスだけで、球場の周囲は畑が広がり風が吹くと砂塵で目が開けていられないほどだった◆現在の駒沢野球場は65年3月に竣工し同じ公園内にあるが別物。正面入り口の雰囲気はよく似ている。(了)