山崎裕之インタビュー(1)-(露久保孝一=産経)
◎甲子園の大物高校生ルーキーから名プレーヤーに
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-山崎裕之(やまざき・ひろゆき)-
1946年12月22日、埼玉県上尾市生まれ。上尾高の遊撃手として1964年夏の甲子園に出場、注目される。自由競争時代最後の大物高校生で、各球団の激しい争奪戦を繰り広げたあと、65年に東京オリオンズ(69年からロッテ)に入団。67年から正遊撃手となり、69年から二塁に移り、初の打率3割(5位)をマーク。70年には25本塁打を放ち優勝に貢献するなど堅守と強打でリーグを代表する選手となる。79年に西武へ移籍、黄金時代を築く要となった。83年に2000安打を記録し、名球会入り。通算成績は2251試合、2081安打、270本塁打、985打点。サイクル安打、1イニング2本塁打2回。二塁手としてベストナイン5回、ゴールデングラブ賞3回。
2019年の開幕戦で、また高校生新人がプロデビューした。大阪桐蔭高からドラフト1位でロッテに入団した藤原恭大(ふじわら・きょうた)選手が「1番・中堅」で先発出場。新人高校生の開幕戦デビューといえば1965年、埼玉・上尾高から東京オリオンズ(現ロッテ)に入団した山崎裕之を思い出す。自由競争時代の最後の大物ルーキーだった。
▽藤原は期待の新人、二軍ズレしないように
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-同じチームの高校生ルーキー(ロッテ・藤原)のデビューは、懐かしい思いがしたのではないか?
山 崎「テレビで注目して見た。“がんばれっ”という感じでね。ちょっと、昔の自分を思い出した」
―藤原選手をどう映ったか?
山 崎「いい選手だな、と思った。デビュー戦でヒットを打つとは、やはり非凡な選手だけある。確かに、期待の新人だ。走攻守の三拍子揃った外野手と言われているように、野球センスは抜群のものを持っている。彼のことで、ロッテの井口(資仁、ただひと)監督と話をした。どのように有望株を育てていくか、将来のことを考えると難しい面もある」
―井口監督は、どんな考えを?
山 崎「藤原はいいデビューをした。しかし、そのあと結果が出ずに二軍落ちとなった。問題は、二軍での生活だ。監督は、そのことを口にしていた」
―どういう問題があるのか?
山 崎「井口監督は、二軍ズレしないようにしなくてはいけない、と言っていた。それは、いい才能を持った選手だから二軍では活躍できる、しかし、それで満足してしまうと、そのレベルで止まってしまう。やはり、一軍でレギュラーを取る選手まで伸びて欲しいというのがチーム首脳の考えだ。監督というのは、二軍生活に染まってしまうことを心配するんだよ。あくまで選手にとって戦いの場は一軍だからね」
―二軍で大活躍するが、一軍に上がると結果が出ない選手は結構いる。そこで“二軍の帝王”と呼ばれたりする。取材していて何人かそういう選手を見てきた…。
山 崎「有望選手は、できれば一軍に置いて鍛えるのが理想だ。しかし、他の選手のこともあるし、チームの和というものがある。一軍で我慢して使うには、試合で結果がでないと限界があるということだ。だから、二軍においてそこでの鍛練と成長に時期するわけだね」
▽僕はスピード王の速球をプロ初ヒットした
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―山崎さんの場合、プロデビューはどうだったか?
山 崎「僕は東映(現日本ハム)との開幕戦でデビューした(65年4月10日)。その日は、打てなかったが、翌日の試合で1本打てた」
―あのスピードボールピッチャーの尾崎(行雄)から打った、と記録されている。速球をヒットしたのか?
山 崎「そう、ストレートだった。打球は三遊間を抜けていった。尾崎のタマは、とにかく速かった」
―当時では、一番速いともいわれたらしいが・・・
山 崎「3割打者の榎本喜八さん(オリオンズ)が、あんな速い球は打てないよ、と苦笑いするほどのスピードボールを投げた。その投手から初ヒットを打てて、僕はほっとした。あの頃、尾崎と同じ東映には、森安という速球派もいた。尾崎が重いタマを投げるなら、森安の投球は球のキレが抜群だった。速いといえば、僕より10年後に入った(1975年)阪急の山口高志の球もかなり速かった」
―開幕からずっと一軍でプレーを?
山 崎「僕も途中で、二軍に落ちている。しかし、全くの二軍暮らしではなかった。一、二軍掛け持ちの野球を続けた。昼間は二軍の試合に出て、五回で引っ込み、一軍の試合がある球場に駆け付け、試合前のシートノックを受けた。それが終わると、風呂に入り、あとは試合の見学。一軍の試合をじっと見つめて勉強をし、いい体験をした」(続)