第10回 「駒沢球場」(取材日2007年3月上旬)
◎駒沢の暴れん坊たち(2)完
▽稲尾からサヨナラ本塁打、張本にご褒美
松木は、新人の張本をレギュラーにしたい、と考えていた。特訓の成果で打球が見違えるほど伸びるようになった。バットの長さを生かして「線」でボールを捉える張本の「全方位打法」は、この寮での練習が原点である。
59年、張本は2割7分5厘、13本塁打で新人王を獲得した。プロ3年目の61年を皮切りに7度も首位打者に輝いた。松木理論が完成度の高い打撃を熟成させたのだ。
一流の技が一流を育てるという。
「若いころ、杉浦忠さん(南海)米田哲也さん(阪急)稲尾和久さん(西鉄)ら、すごい投手がいっぱいいましてね。その人たちに育てられましたよ」
張本は回顧する。
忘れられない本塁打がある。61年9月21日の西鉄戦(駒沢球場)だった。スコア3--3の延長12回、先頭打者で稲尾から奪った右翼席へのサヨナラホームランだ。
「内角のスライダーだった。すごいのはその後の稲尾さんですよ。二度と同じコースに投げてこなかった」
稲尾に確認した。
「カウント2ストライク-3ボールでね、詰まらせようと思ったんだが…」
劇的な勝利に水原茂監督から千円札で3万円もらった。
「彼女と渋谷の餃子屋へ行って、たらふく食べた」
張本と稲尾の対決を公式記録で調べてみた。
11シーズンで都合188回対決している。戦績は161打数47安打,本塁打6本,打率は2割9分2厘。隔年ごとに打ったり抑えられたりの繰り返しは互いに研究し合ったことを伺わせる。
面白いのは27四死球のうち11個がボールカウント0--3からのものだ。
稲尾は手の内を明かす。
「彼は球数が多くなるほどタイミングが合う打者でね。だから早いカウントで引っ掛けさせる投球をした」
長打もある打者だから、不利なカウントからの勝負は避けたのだ。
「ノムさん(南海・野村克也)は配球を読むタイプ。張本は型にはまると、どんな球種でも安打にしたね」
▽元気者、気っぷの良さにヤジ将軍
若い張本が4番を打つ駒沢時代の東映は威勢のいいチームで知られた。
張本が入寮したとき、兄貴分が23歳の土橋正幸。浅草の魚屋の倅は気っぷのよさで知られ、後に日本ハムなどで監督を務めた人である。浅草・フランス座の軟式チームでエースを張り、東映の入団テストに長靴を履いたまま出掛け、その場で入団を決めた逸話がある。
浪商(現大体大浪商)で張本の4年先輩の山本八郎は、気性がめっほう荒く“ケンカ八郎”の異名があった。再三の暴力行為で「無期限出場停止」になったこともある。
兄貴分の土橋が言う。
「みんな若かったからね。それに親会社の東映が時代劇の任侠路線で売れ、やくざシリーズに人気があった。そんな背景もあって暴れん坊的なイメージをつくったんじゃないかな」
名物ヤジ将軍もいた。
川崎南税務署長を務めた池田宗昭や通称“ミヤさん”という栃木弁の大きなガラガラ声のファンとの掛け合いはスタンドの名物だった。
試合中に雨が降り出すと避難場所のない客席で東映の社員と思(おぼ)しき男が傘代わりに東映時代劇のポスターを配ったりした。
試合が終わると、選手はスパイクシューズのままで寮へ引き揚げた。それをファンが取り囲む。勝てばヒーロー、負ければ罵倒の嵐。
張本は、
「ある種の緊張感がありましたよ」
という。
“駒沢の暴れん坊”の時代は、栄光のないまま9年間で終焉した。東京オリンピック開催のため根城を移したのだが、初優勝がその翌62年とは何とも皮肉である。(了)
「駒沢球場メモ」
東京都世田谷区駒沢公園。1953年9月~61年。両翼91・4m、中堅122m、2万人収容。55年6月ナイター設備設置◆東京急行が建設し東京都に寄贈した。球場開きは53年9月27日。東映の前身、東急フライヤーズが53年末に本拠を後楽園から駒沢に移し、54年2月に東映になってそのまま引き継いだ。東京五輪のため61年のシーズンを最後に閉鎖された◆61年の東映は快調に飛ばし巨人相手の日本シリーズが実現しそうになったが、最後に南海に優勝をさらわれ幻となった。この球場でのプロ野球公式戦はパ・リーグが667試合で561本塁打が記録され、セ・リーグは18試合で23本塁打が出ている◆当時の交通アクセスは渋谷からの路面電車とバスだけで、球場の周囲は畑が広がり風が吹くと砂塵で目が開けていられないほどだった◆現在の駒沢野球場は65年3月に竣工し同じ公園内にあるが別物。正面入り口の雰囲気はよく似ている。(了)