山崎裕之インタビュー(2)-(露久保孝一=産経)
西武ライオンズでも攻守に渡って活躍、常勝チームの礎を作った(山崎氏提供)
▽長嶋茂雄二世と言われて
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―山崎さんは埼玉県立上尾高校の時に、「長嶋二世」と言われた。改めて、どうしてそう呼ばれたのか?
山 崎「高校に入学してすぐ、春の埼玉県大会の試合だった(1962=昭和37年)。現在のさいたま市の大宮球場で1年生の僕が、バックスクリーンにホームランを打った。1年生ほやほやの男が…」
―どんなホームランだったのか?
山 崎「当時のボールは反発力ないし、現在の球とは違って飛ばないボールだった。それだけに、よくあんなところへホームランできたな、と僕自身驚いた」
―大宮球場のバックスクリーンへは、その前に長嶋茂雄さんが高校生の時にホームランしている。
山 崎「そう。長嶋さんは、佐倉一高(現在の千葉県立佐倉高)の3年生の時に、ホームランを打った(1953年8月)。高校生では、その長嶋さん以来のバックスクリーンホームランだったため、新聞に書かれた。それで、長嶋二世と…」
(長嶋は高3の全国高校野球選手権の南関東大会1回戦で本塁打を放った。高校時代のホームランはこの1本だけだったが、この一打がきっかけで名前が大学、プロ野球界でも知れわたった。山崎も、この本塁打でプロ球界から関心を示された)
―新聞に長嶋二世と報じられて、周囲はどうだったか?
山 崎「僕は意識しなかったけど、新聞に出たことで学校でもちょっと騒がれたようだ。なにしろ、あの長嶋さんだからね。当時から、巨人の長嶋といえば、すごい人気で、僕にとってもあこがれの人だった。でも、高校では普通に生活した」
―長嶋二世と言われるようになって、他校からは警戒されたのではないか?
山 崎「2年秋の関東大会では、対戦相手の外野手は、僕が打席に立つと定位置よりだいぶ後ろに移り外野フェンス際で守っていた。この大会で、僕は12打数8安打、2本のホームランを放った」
―やはり他校にも、山崎さんの存在は知れ渡っていたわけですね。高校時代はずっとショートを守っていたのか?
山 崎「投手もやったことがある。2年生の春のセンバツ大会で、ショートを守っていて、リリーフで1イニング投げた」
▽“上尾詣”をした東京オリオンズ・スカウト
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―高校1年から長嶋二世のすごい打者と言われたことで、プロからのアプローチはどうだった?
山 崎「1年生の春からプロのスカウトが見えた。東京オリオンズの山田潔(きよし)スカウトだった。私の実家に来て、いろいろ話をしてくれた。最初に声をかけてくれたプロ野球の人だったから、よく覚えている」
―1年の春からとは、随分早い。山田さんは、ずっと山崎さんのところに来たのですか?
山 崎「そう。山田さんは、車で上尾詣(もうで)をした。僕にも声をかけてくれた。本当に熱心な人だった
―どんなことを言われたのか?
山 崎「山田さんと話をするようになって、山田さんから、プロには(大学に行くよりも)早く入った方がいい。オリオンズはショートを空けて君を待っているよ、と言われた。僕には大きな、ずしりとくる言葉だった」
―プロ入りは、結局、オリオンズだった。他球団から誘いもあったと聞いているが…
山 崎「僕が、高校を卒業する時に、東京オリオンズを選んだのは、山田さんの存在が大きかった。プロに入った時に、レギュラーとしてゲームに出られるところを優先したい、と僕は家族にも伝えた。野球はゲームに出てはじめて自分の力を発揮できるし、いろいろなことを試せる。逆に、試合に出られないと何もできない、それはプロじゃないと思っていた。そのことを考えたら、やはりオリオンズになったんだ」
―長嶋さんと最初に会ったのは?
山 崎「高校3年の時、箱根で会った。僕は制服姿で行った。あこがれの人にあって、緊張した」
―プロに入ってからは?
山 崎「僕がロッテを辞めさせられそうになった時(1978年オフ)に、長嶋さんが、ウチ(巨人)も(獲得に)いっているんだろうね、と声をかけられたこともあった。その話は実現しなかったが…。2000本安打して名球会入りしてからは、何度か会って話をしている」(続)