「評伝」金田正一

◎“ノーサイン”で生き抜いた野球人生

 400勝に4490三振。天文学数字を残した金田正一が亡くなった。2019年10月6日、86歳だった。
 ニックネームは「黄金の左腕」、そして「天皇」。14年連続20勝の中にはオールスター戦までに20勝を挙げたシーズンもある。加えて完全試合。3000安打の張本勲がテレビの番組で「300年経っても出て来ない投手」と評したが、対戦した打者ならだれでもそう思ったことだろう。
 名古屋の享栄商を3年生で中退して国鉄スワローズに入団したのが1950年。契約金50万円、月給2万5000円。当時の公務員給料が6000円ほどだったから、無名にしてはかなり期待の金額だった。
 武器は速球とカーブ。走り込みで足腰を鍛えて下半身が安定したことからコントロールもよくなった、と後年語っている。この体験からロッテ監督になってもそれを取り入れた。あまりの激しさに文句を言っていた投手たちだったが、引退した後「走り込みのおかげで寿命が延びた」と感謝したものである。
 現役時代は自分の思うように投げた。捕手のサインはなし、「ノーサイン」ということである。国鉄時代、捕手たちは体中アザだらけだった、という。巨人移籍後もサインなしだったと捕手は振り返っている。責任は自分がとる、ということであり、それだけ自信を持っていた。金田伝説として語り伝えられることだろう。
 この天下御免の怖いもの知らずの男が二度ほど悔し涙を流した。一度は400勝目の記念ボールが野球殿堂に飾られなかったとき。そのボールは大リーグの殿堂にあるのだが、ボールを持って羽田空港からニューヨークに向かったときのうれしそうな姿が思い出される。
 もう一度は殿堂入りの記者投票で何度も落選したことだった。本来なら1年目に当選間違いなしの実績だった。「なんでなんだ…」と悔しがった。
いずれも自分の力ではどうすることもできなかったわけなのだが、初めて他人の力を知ったのではないか。
 私生活でも我が道を行った。美人歌手と結婚、離婚。宝塚スターと再婚。歌の先生は美空ひばり。17歳の高校中退の少年が左腕一本で築き上げた華やかな人生だった。むろん、球界でも。長嶋茂雄を「シゲ」と呼ぶただ一人の野球人で、野球を生業とした人生をノーサインで思うように生き抜いた、うらやましい男といえた。(菅谷 齊=共同通信)