「私とカネさん」-(小林達彦=ニッポン放送)

◎感謝、感謝、ただ感謝

 カネさんこと金田正一さんが亡くなった。金田さんには小生が現役時代、ひとかたならぬお世話になり、可愛がってもらった。
 私がロッテ担当になったのは1970年(昭和45年)で、ロッテの本拠地が今は無くなった東京・荒川区南千住にあった東京球場。その時の監督は濃人渉さん。翌年の途中で大沢啓二監督に交代、さらに1年後の73年から金田監督になった。当時、「カネやん」とは面と向かって言えず「カネさん」「カネさん」と言っていた。

▽単純明快、メディアを熟知

 その頃のロッテはチーム名が毎日オリオンズから大毎オリオンズ、東京オリオンズ、ロッテオリオンズとよく変わった。その上、本拠地球場が閉鎖、代っての本拠地が一ヵ所でなく、仮本拠地の仙台・宮城球場のほか、神宮球場、川崎球場などを転々とした。”ジプシー球団”(当時の報道)といわれたゆえんだ。
 この「ジプシー・ロッテ」の初年度に就任したのが金田監督だ。通算400勝をはじめ数々の記録を残しているカネさん。実際、接してみると話は単純明快、一言でハッキリ言う人だった。技術論はほとんどなかったが、記者とは実によく話をした。特に試合前のベンチでは多くの記者に囲まれていた。
 ある時、カネさんが「きょう巨人戦はあるか?」と記者に聞いた。「あります」と答えると「じゃあ、きょうはしゃべんなくていいな」と口数が少ない。逆に「巨人戦、ありません」と言うと「わかったぁ、おい、みんな集まれ」と記者を集めた。
 話の内容は、言い方は悪いがややオーバーにあることないこと(?)しゃべった。翌日の新聞を見るとロッテの記事が大きく載っている。そのころは巨人、巨人の時代で、巨人の試合があると新聞の扱いは巨人中心になっていた。実によくメディア扱いを知っていた方だった。

▽優勝パレード同乗の特待

 個人的なことになるが、開幕直前のことだったと思う。ロッテ入団の新外国人選手が来日したとき、原宿にある料亭での昼食にどういう訳か小生が呼ばれた。通訳もいないし何の話をしたか忘れてしまったが、覚えているのは食卓に出たステーキには驚いた。バカでかい。肉の塊がグローブくらいの大きさに見えた。小さめの塊を1個食べただけで腹いっぱいになった。カネさんは片言の英語で話していたようだった。
 また、春のキャンプ地の鹿児島へ行った時だった。「コバ、今晩付き合え」と言う。夜、指定された料亭に行った。宴会だった。着物姿の女性が5、6人、男性はカネさんと小生だけ。名物の薩摩焼酎を飲まされた。小生は酒に弱く量はいかないが、嫌いではない。「黒じょか」(酒を注ぐ容器)という言葉を初めて知った。野球の話はなかったと思う。
 74年、カネさん2年目。前、後期制の後期に優勝した。勢いをかって前期優勝の阪急を破りパリーグ一に。日本シリーズはセリーグを制した中日(巨人を9連覇で止めた)と対戦した。結果は4勝2敗で日本一になった。有藤道世、山崎裕之、弘田澄男らの攻撃陣に加え、木樽正明、成田文男、村田兆治ら力のある投手ががいた。
 そして、日本一の優勝パレードが行われた。東京駅前を出発し、銀座、新橋から赤坂見附、新宿と回り、大久保のロッテの工場までのルート。その出発前、八重洲地下駐車場へ行ったら、カネさんがいきなり「コバ、一番前の車に乗れ!」という。ビックリしたのはもちろん、乗っていいのか悪いのか? 
 ちょっと迷いつつも図々しく先頭のオープンカーの助手席に乗り込んだ。放送の取材武器“デンスケ”(録音機)も持たずただ乗っただけ、後ろの席(高めになっている)には金田監督とシリーズMVP弘田選手が並んで座っている。
 八重洲口を出発、最初は助手席にただ座っていたのだが、観衆の多い新橋、新宿などではいつの間にやら手を振っていた。パレード終了後、カネさんに「コバ、良かったろう」。その時のカネさんの顔を覚えている。
 いずれにせよ、恩人カネさん、本当にお世話になりました。ただただ、感謝しかありません。安らかにお休みください。

<追伸>このパレード先頭車両に乗っている写真がありません。どなたかお持ちでしたら、ぜひ譲っていただきたいのですが…。