「評伝」野村克也

「考える月見草」(1) 
◎東京ドライブで語った真相

45歳になっても、「生涯一捕手」として懸命にプレーを続けた。1980(昭和55)年、西武ライオンズへ移籍して2年目に入り、まだ現役でプレーする気持ちは強かったが、体力の衰えもあって引退の気持ちに傾き始めた。
夏場にさしかかったころ、私(露久保)は、野村さんに「すこし多めに時間をとって話を聞きたい」とインタビューを申し込んだ。野村さんはニタッとして、こう提案した。
「それじゃ、西武球場に行く時、俺の車に乗って一緒に行こう。車の中なら、たっぷり話ができる。目黒から1時間半はかかるからな」
「ありがとうございます。いつでも結構ですが、近いうちに…」
「おう、それじゃ、あすにしよう。わしも一人では寂しいから、たまにはにぎやかに話をしながら運転したい。楽しみやな」

▽監督には向いていない、監督失格者だ
翌日の昼間、東京・目黒の野村さんの自宅へ伺い、愛車リンカーンに乗せてもらって出発した。たっぷり時間がある、いろんなことが聞けると思っていたが、話が弾み、あっという間に西武球場についた。
東京から埼玉へのドライブで聞いた話を中心に、これからこの連載で書きたい。すでに報道された話もあるが、いくつかはこの欄で初めて披露する「秘話」もある。
車中で、一番の聞きたかったのは、
「現役引退後、監督になった場合、どんな野球をしたいか?」
だった。野村さんは、私のその質問を即、遮った。
「わしは、監督はやらないよ」
と明言する。どうして、監督はやらない、と野村さんは言ったのか? 一呼吸後、その理由を語り始めた。
「わしは、監督には向いてない人間だ。なぜかといえば、人を見る時に、その人間性を見て、能力を度外視してしまうからだ。選手の技量を無視するなんて、監督としては失格者。わしは、失格者であるから、監督にはなれない男なのだ」
▽飯田哲也、橋上秀樹の顔にあの言葉が・・・
私は、言葉を失った。その理由を聞いてみれば、野村さんの奥底に秘められた人生観を見たような気がした。そうと実感できるまで長い年月がかかった。
 はっきりと認識したのは、1993年、野村さんがヤクルト監督として日本一についた瞬間であった。監督失格者が優勝したのである。そう感じた新聞記者は、たぶん私だけだったであろう。
ヤクルトには古田敦也、池山隆寛、広澤克実、伊東昭光、荒木大輔、伊藤智仁ら主力に交じって、飯田哲也、橋上秀樹らがいた。私の目は飯田、橋上に釘づけになった。
2人に「監督失格者」のイメージが隠されていた。私は頷いた。2人に、いや、もっと多かったが、車中で私が聞いた野村監督の言葉が映っていた。私は、それをここで理解した。
▽私にうそはついてなかった
野村さんは、監督失格者の倫理観を持ちながら、その失格者を花咲かせて成功した。まさに、苦労人の手作業、これぞ“考える月見草”ではないか。
私は、深い感慨に浸った。秋風が心地よい神宮球場のバックネット裏から野村さんの胴上げを見て、東京ドライブで聞いた言葉を、何度も何度も頭のなかで甦らせた。
監督になれない人間失格者が、なぜ、監督に就き栄光の花を咲かせたのか。私は、その理由をまだ書いていない。
野村さんは、私に「わしは、監督にはならない」と言いながら、ヤクルトの監督に就任した。その時は、私にうそをついたのか、と私は空しくなった。
しかし、うそから出たまことではないが、野村さんの反語として理解したい。監督失格者の理由は、一言では語れないので、次回からそれを説明します。(続)

楽天監督時代の野村克也を取材する筆者(右)