「インタビュー」山本泰(5)-(聞き手・菅谷 齊=共同通信)
◎27歳で現役退き、PL学園へ
山本は二十代後半にさしかかったとき、野球人としての決断をする。現役を辞め、指導者の道を選んだ。その道が甲子園への道につながるのである。
-社会人野球からPL学園へ。そのいきさつは?。
山 本「日本楽器の後、日拓観光でプレーをしていたんです。その日拓がプロ野球に進出することになりました。1973年に東映フライヤーズの経営権を持ったわけです。そのとき、プロ野球でプレーを、という話があったんですが、お断りして大阪に戻った。そうしたらPL学園から話があったんです」
-どういうルートで…。
山 本「オヤジ(南海監督)がPL教団と付き合いがあったというんですよ。オヤジはPLに野球のアドバイスしていたようです。そんな関係からPL学園から話があり、オヤジに相談したら、せっかくの誘いだぞ、と言われましてね。コーチとしてお世話になったわけです」
-何か条件は?
山 本「とくになかったですね。ただオヤジから金銭には絡むな、とアドバイスを受けたのを覚えています。だから野球部の予算は全く知らなかった」
-そのころのPL学園の野球部はどんな環境にいましたか。
山 本「立派なグラウンドがあり、部員は1学年18人から20人ほどで、すべて寮生活でした。用具と道具は潤沢でしたね。監督になってから用具を管理しているコーチの案内で初めて倉庫を見せてもらったんですが、用具と道具はものすごい量でしたね。そこらの運動具店など問題にならなかったくらい何でもそろっていたので驚きました」
-監督になったのは74年でした。監督としてみた野球部はどうでした…。
山 本「キャッチボールもろくにできない生徒がいましたよ。それなのに大阪府の優勝候補に挙げられていたんですね。でも勝てるチームではなかった」
-対策は…。
山 本「私自身の意識を変えました。レベルを下げて教えよう、と。これまで私はかなりレベルの高いところで野球をやっていました。法政二高時代は全国一だし、選手も柴田さん(勲=巨人)ら超高校級を見ていたし、法大でも社会人でもレベルが高かった。高校選手の見る目を下げたんです」
-具体的には…。
山 本「基本の徹底です。キャッチボールとペッパー(トスバッティング)を毎日1時間はさせました」
-選手はどうでしたか。
山 本「不満があったと思いますよ。態度で分かりますから(笑)。私は甲子園に行くための練習はしませんでした。彼らが大学や社会人、あるいはプロの世界に行ったときに困らないようにしてやろう、と考えて指導しました」
-試合への考え方は…。
山 本「1回戦に勝てるチーム作りです。それをクリヤできたら2回戦に勝てるチーム作りです。なぜ1回戦かというと、高校野球は1回戦で負けたら終わりですから。1回戦で優勝候補と当たる場合もあるわけです。これは法政二高の田丸監督に教わったことです」
山本は基本を徹底気に叩き込んだ。PL学園というと、強豪チームというところから見ているが、その土台を作ったのが山本の「ヘタクソに教える」ところから始まった。高校野球の指導者としては珍しい存在だった。その基本重視は全国に名をはせる集団に化けていく。(続)