「100年の道のり」(28)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎若きジョー・ディマジオの大ホームラン
 沢村は自慢のカーブを投げた。打球は乾いた音を立てて左中間に飛んだ。外角に曲がった球をものの見事に引っ張られた。二塁打だった。
 「すごいバッターだな」
 日本のベンチは驚きに包まれた。この打者がヤンキースの主軸で大リーグの至宝となるジョー・ディマジオだった。そのとき21歳。
 1935年、東京ジャイアンツがディマジオの所属する3Aのサンフランシスコ・シールズと対戦したのは、遠征試合が始まって間もない3月のことだった。当初、ディマジオはシールズと年俸で折り折り合わず、メンバーに入っていなかった。話がまとまり、日本戦に間に合ったというわけである。
 26日の試合で、ディマジオは第1打席で畑福から左翼へホームランを放った。150㍍を超える一撃だったという。沢村と対戦したのは8回。見事に打たれたスクールボーイは驚きの表情を見せた。
 シールズ時代のディマジオは61試合連続安打を記録するなど安定した打撃に加え、守備、走塁にも優れ、メジャーから注目されていた。3割9分8厘、34本塁打、154打点を置き土産にヤンキースと契約。日本選手はシールズ最後の年に対戦したわけで、貴重な体験となった。
ディマジオは36年に大リーグデビュー。初打席で安打を放った。それから5年後の41年に56試合連続安打の不滅の記録を作った。この年の12月、日本は真珠湾を襲い、米国との太平洋戦争に突入した。
当時、日本は中国との関係が悪かったが、選手たちはまさか米国と武器をもって一戦交えるとは思いもしなかっただろう。
ディマジオは全米ファンのあこがれの存在となった。その美しい打撃フォームは日本のプロ野球選手の理想でもあった。日本との因縁は深く、日米野球で来日したし、女優マリリン・モンローとの新婚旅行でも、日本を観光したほどである。現役最後のユニホームも日本でのホームランだった。
王貞治の世界少年野球のイベントにも参加している。(続)