「いつか来た記者道」(25)-(露久保孝一=産経)

◎連敗を乗り越え、笑って「天下の御意見番」
2020年の世界は、パンデミックに見舞われた。そのウイルスではないが、50年前の1970(昭和45年)、日本のプロ野球にある悲劇が起きた。
それは、連敗また連敗の「感染拡大」だった。チームはヤクルトアトムズ、監督は別所毅彦。悲運に泣いた別所だが、どっこいその後は「笑いの人生」を送った。
その稀有な男の話を書きたい。
1970年はヤクルトのスタートの年で、ファンの期待は大きかった。ところが、5月に4連敗以上を3回記録し、7月4日から11連敗する。8月4日に再び連敗が始まり11まで伸びて、別所監督はクビになった。
あとを引き継いだ小川義治監督でも負けが続き16連敗となった。この年、チームが勝ったのはわずか33。92回も負けた(5引き分け、勝率.264)。
「もう、負け慣れしちゃったな」
とファンは苦笑いするだけだった。
▽あだ名の数では優勝だ
別所はユニホームをたたみ、背広に着替えて野球解説者に転じる。こちらでは負けがないから、大いに笑った。
現役時代の愛称は「べーやん」で、監督して「走れ、とにかく走れ」と選手をしごいて「鬼軍曹」といわれた。
解説者になると、別所の「人間性の特徴」から多くのあだ名がついた。これほどのあだ名をつけられた野球人も珍しい。
フジテレビ系の「プロ野球ニュース」の解説者を長く務め、選手のプレーや監督の采配に気楽な立場から苦言を呈したあと、ガハハハ…と笑うのがトレードマークとなった。
それがお茶の間で受けた。
まず、「ガハハハおじさん」である。彼の顔かたちをみれば、特徴ある「白髪眉毛」が目に付く。それが、そのままあだ名になった。
他チームのことを批判しても巨人には擁護ばかりするとして「巨人びいき」と揶揄された。
ユニークな野球おじさんとしての人気から、やくみつるの四コマ漫画に何度も登場した。
さらに、「貧乏ゆすり」のクセがあり、それを見て周囲が面白がり、それをあだ名にした。
試合観戦後のテレビ解説では、現役時代の投手と監督のキャリアを生かして具体的に評論し、プレーを巧みに分析した。
こんな姿勢をとらえ、マスコミは「球界の彦左(大久保彦左衛門)」とのニックネームをつけた。
▽初代沢村賞と巨人歴代最多勝利
大久保彦左衛門といえば、江戸時代初期の旗本で、徳川家康に仕えて頭脳派勇士として勲功を立てた。大名には就かず、家康の側近として「天下の御意見番」の役割を果した。
別所にも、そんな風格が感じられたため、プロ野球界の御意見番的存在と見られたのである。
別所は現役時代、多くの功績を残している。初代「沢村栄治賞」受賞者であり、巨人時代の通算221勝は現在でも球団最多勝利保持者でもある。
記者の間では、選手時代から別所の評判は高かった。
「別所ほど体の強い男はいなかった。多くの投手が見舞われる肩、ひじの故障はなかった。“無事これ名馬”の見本だ。それに、あの男は投手でありながら、打撃もすごかった。50年には166打席に立ち、打率3割4分4厘の成績を残した。その戦歴があるから、解説者になってもガハハハと選手を斬れたのだよ」
笑う門には福来る。笑えるような楽しく、かつ厳しいプロ野球選手の好プレーをファンはいつも待っている。(続)