「菊とペン」-(菊地順一=デイリースポーツ)

◎深夜の長嶋取材、最終電車に乗り遅れ駅で一泊
季節はちょうど今頃、本格的な冬が訪れようとしていた。私、30歳前である。オフに入って会社で夜勤を命じられていた。時刻は午後6時頃だった。デスクから声がかかった。
 「長嶋の家に行って来い」
 なにかオフの情報が入ったようで長嶋さんに関連することだった。話の内容は?だったが、デスクの指示である。おそらく会社で遊ばせたくなかったのだろう。
 田園調布の長嶋邸のピンポンを押す。返事はない。しばらく待つか。
 8時を過ぎると風が急に冷たくなった。当時は携帯電話はない。長嶋邸に背を向けて右が坂、三差路を今度は左がまた坂である。100メートルほど下ると(記憶では)田園調布駅が見える。そこまで電話ボックスを目指して走る。 
この間に帰宅したら立ちんぼが水の泡である。
 もちろん、時刻表で渋谷までの最終電車の確認をしておいた。自宅までの山手線、私鉄の時間を計算に入れてである。
 9時、10時を過ぎても長嶋さんは帰宅しない。オフで降版時間も早い。腹も減った。しかも寒い。
 私の心の中の悪魔が「デスクに帰ってこないと報告して終わりにしよう」とささやく、しかし、今度は天使が「仕事だぞ。ギリギリまで頑張れ」と叱咤する。
 結局、天使が勝利した。待ちました。帰宅できる時間は刻一刻と迫ってくる。
 もはやこれまでと腹を決めた瞬間、高級車が長嶋邸に横付けされた。ご帰宅
である。
 「おう、どうした、どうした」
 長嶋さんが声をかける。時間を気にしながら質問する。予想通り、完全否定である。
 「ありがとうございます」
と頭を下げて帰ろうとすると、長時間立ちんぼをしていた私を気の毒に思ったか。最近の球界情報を交えた世間話になった。
私、話を聞いているが、電車の時間が気になった仕方ない。
 当時はコンビニでお金をおろすなんてことはできない。こんなことになろうとは。財布の中は心細い限りである。
 話は終わった。
「ありがとうございます」
とあいさつをして、右の坂から左の坂にダッシュした。まだ間に合う。必死である。
 ところが、左の坂を下り切ったところで、背後に「おーい」という声が聞こえる。振り向くと、長嶋さんが手招きをしている。背広姿のままサンダルをはいている。
 今度は坂道を猛ダッシュで上がる。ハアハア、ゼイゼイ。すると長嶋さんは「しーっ」と右手の中指を唇に立てた。
 どうやら世間話の中に重大なニュースがあったと思ったらしい。その手のものはなかった。だが、私がデスクに報告するため走り出したと勘違いをしたらしい。
 私も「しーっ」と右手の中指を立てて応じた。と、その時、背後で電車が駅に滑り込む音がした。
 もう急ぐ必要はない。財布の中身と相談して行けるところまでタクシーを使い、あとはどうしたか。ハッキリ覚えていないが、どこかの駅で一晩を過ごしたおぼろげな記憶がある。
 いま、猛ダッシュをしたら足がもつれて転ぶかもしれない。でも、あの「しーっ」の内容はなんだったのか。いまだに謎である。(了)