「評伝」 野村克也-(露久保孝一=産経)
「考える月見草」(9)
◎榎本喜八は選球眼抜群の天才だった
長嶋茂雄、王貞治、中西太らが活躍した昭和30年代に、ネット裏で「彼こそ、ナンバー・ワン打者」といわれた男がいた。野村も、その見方をしたひとりだ。
その偉大なる打者は、榎本喜八である。大毎オリオンズ(現ロッテ)の左打者で一塁手だった。1955(昭和30)年、早実高から入団して新人王をとり、首位打者2度、打率3割を6度マークした。山内一弘、田宮謙次郎、葛城隆雄らと「大毎ミサイル打線」の中心打者として時代を作った。
この榎本を、野村はこう評した。
「私が知る限り、プロの打者でもっとも選球眼のよかったバッターは榎本喜八だ。ワンちゃん(王貞治)の選球眼は素晴らしいといわれるが、榎本の方がもっとすごかった」
世界のホームラン王と比べて、榎本はどこが優っていたのか。野村は続ける。
「ワンちゃんは、内外角の際どいた球にピクっとバットが動きそうになる。それを見て、こちらとしては彼の狙いが読めて攻めやすかった。ところが、榎本は不動のままである。ボールを見送る時、頭がピクリとも動かない。あんな恐ろしいバッターには、後にも先にもお目にかかったことはなかった。表情も変わらないから、攻める球がなくなってしまうのだよ」
▽稲尾のスライダーに惑わされず
榎本は、抜群の選球眼をもち、ボールの芯でとらえるテクニックは芸術品と評された。西鉄の稲尾和久の武器である外角ギリギリのスライダーでも、榎本は引っかからずに見送った。
野村は、それでも「何か、彼の選球眼を狂わせる球はないか」とあれこれ考えた。内外角の「誘い球」は通用しないことがわかったが、高低のボール球にたまに手を出すことをつかんだ。そこで、高めのボール球を勝負球に使ったことがある。それでも、効果は少なかった、と苦笑いした。
榎本は、コツコツと安打を積み重ねた。「彼の努力は記録でもよく表われている」と野村が言ったのは、安打製造機という代名詞の「勲章」である。
24歳9カ月で達成した通算1000本安打は史上最年少記録、31歳7カ月での2000本安打は、イチローの30歳7カ月に次いで史上2番目のスピード記録になっている。
他にも、すごい記録がある。高卒新人として開幕戦に5番打者としてクリーンアップ・トリオの一角を任されたのは、榎本だけである。正確なミートのテクニックは、64年に641打席に立って三振がわずか19だったことからも証明されている。まさに、「史上最強の打者」と評価される所以である。
▽孤高の打撃テクニッシャン
王の師匠である荒川博の勧めもあって、榎本はプロ入り後に「禅」を取り入れた。30歳を過ぎてからは、バッティングの技術を追求し沈思黙考することも多かった。
現役を引退したあとは、プロ野球界には残らず消えたような存在になってしまった。それでも、プロ野球ファンの間には「最高の打撃テクニシャン」としてその名は輝いて残っている。
「昭和30年代、本当にすごいと思った打者は榎本、投手は稲尾やな。2人とも天才や」
野村は、同じパ・リーグの偉人としてこう褒め称えた。こんな見事な打者が存在したプロの歴史を、野村の思いとともに私たちは大事にしたいものである。(続)