「100年の道のり」(37)-プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)
◎巨人に連判状事件、監督交代で治める
きっかけは選手からの監督解任を求めたことからだった。つまり排斥。主力の水原茂と田部武雄が浅沼誉夫監督を切り、三宅大輔の監督復帰と苅田久徳の再雇用を、との内容で、同意者の署名を集めて球団に突きつけた。1936年春の“連判状事件”である。
この時期が第2回アメリカ遠征に出かける直前。背景にフロントへの不満があった。今なら大事件として連日マスコミを賑わせたことだろう。
「市岡忠雄に球団は任せてある。だから市岡の判断に従うように」
正力松太郎の裁断が下り、選手たちは矛を収めた。遠征は浅沼監督がそのまま指揮を執り、水原と田部も参加した。
これで解決したわけではなかった。チームが遠征中、球団では浅沼更迭に踏み切り、後任を探した。浮上したのは藤本定義。巨人が第1回米国遠征から帰国し、全国遠征した際、2度も負けた東京鉄道管理局(東鉄)の監督だった、あの藤本である。
巨人は6月5日に帰国。藤本は横浜港に出迎え、船上で浅沼から監督を引き継いだ。新旧監督が並ぶ交代劇は巨人の得意技だが、すでに最初からこのスタイルを作り上げていた。
藤本は愛媛県松山市生まれ松山商で投手として頭角を表し、早大でもエースとなった。鋭い変化球と度胸のいい投球。“カーブの藤本”として名を上げた。25年秋の早慶復活試合で勝利投手になっている。藤本は巨人戦で活躍した投手の前川八郎、強打の伊藤健太郎を連れて巨人に入った。
「門限9時」「消灯10時」「禁酒」
谷津グラウンド(千葉県)での合宿に入ると、こんな張り紙を張った。練習は長く、厳しいものだった。これに選手たちは不満を態度に示した。アメリカ帰りのオレたちに何だ、と。藤本は、それがどうした、と言って取り合わなかった。
「連盟結成記念第1回全日本野球選手権試合」と銘打った3大会に巨人は出場。巨人参加でプロ全チームがそろったわけである。巨人は東京大会(戸塚球場)1勝2敗、大阪大会(甲子園球場)1敗、名古屋大会(山本球場)1勝2敗。7試合2勝5敗というお粗末さ。米国修業は何だったのか、と冷笑された。
藤本は、これで巨人は天狗の鼻がへし折れオレの思い通りにできる、と改革の手を打っていく。(続)