09「菊とペン」-(菊地 順一=デイリースポーツ)

◎記者修行中の電話番、怖い低い声
「TELハラ」なる言葉がしきりに喧伝されている。「電話番は新人の仕事」という職場の空気や慣習はいわゆる「ハラスメント」に当たるというのだ。新人は電話に慣れていない世代であるからして、緊張とともにストレスを感じる。これが理由の1つとか。
 私がデスク時代は新入社員に研修の一環として電話番をやらせた。編集局には読者から記事への質問やら抗議が多い。時には理不尽な内容もある。当意即妙が必要だ。鍛えられる。新人教育に電話番はもってこいだ。
 私もいまから新人時代の30数年前、約1年間電話番をやった。最初の配属先はレース部である。中央競馬から競輪・競艇・地方競馬など。右も左も知らない世界だった。
 当時、夕刊を出していた。中央競馬の担当だったが、取材日以外は社に上がって雑用である。輪転機が回るのが午後5時半で先輩たちは刷り上がった夕刊をチェックして夜の街へ消えて行く。
 私の出番はこれからだ。首都圏を中心に夕刊が駅に配置される。いまでこそネットで速報の時代だが、当時はそんなものはない。ギャンブルファンにとってレース結果が「速報」で掲載される新聞は重宝された。
最低午後9時まで待機だ。読者からの電話はまあ9割方は抗議だ。
「お前のところの予想で大損した。どうしてくれる」
「あの予想をした記者を出せ!」
「なにが絶対にくるだ!寝言言うな」
などなどで、こんな電話には最後までハイ、ハイと話を聞く。怒鳴り返したら後々大変だ。辛抱強く耳を傾けるしかない。
 そんなある日。目の前の電話が鳴った。取ると受話口から中年男性の低く押し殺したような声が。
「お前のところの予想で確実と書いてあるから乗ったが全然だった。無責任じゃあないのか。有り金全部すったぞ」
 その声には陰湿で酷薄な響きがあった。しかもしつこい。同じことを何度も繰り返す。いつの間にか1時間以上経っていた。 たまたま隣の席にいた某先輩があごをしゃくった。貸せだ。先輩、いきなりの大声だ。
 「アンタ、さっきからなにをぐじゃぐじゃ言ってるんだ。ハア?、バカ野郎。てめえがやったことを人に押し付けるな。こっちはヒマじゃねえ。エッ?、出刃包丁を持って社に来るって。来るなら来い。いままで来た試しはねえ」
電話をたたき切った。
 「心配ないよ。何度もこんなことがあったが来たヤツはいない。オレがついている」
 心強いお言葉である。デスク候補の方だった。さすがと思った。ところが先輩、30分を過ぎた頃から妙に落ち着かない。しきりに編集局のドアに目を走らせる。人の往来は自由だ。1時間が経過すると、先輩がやおら立ち上がり帰り支度だ。エッ、ずっといてくれるのでは…。
「オレ、帰るわ。さっきの電話で気分が悪いから一杯やる。来ないから大
丈夫」
と編集局を出て行った。来たらどうしよう。あの陰湿さはタダ者ではない。運動部の一角とは離れている。やられる。妄想が膨らむ。結局、何事もなかったが、9時まで長かったこと。
 電話番でいろいろなことを学んだ。経験した。その後の記者生活に役立った。いまでも思っている。それに他人が当てにならないことが改めて身に染みた。
 「TELハラ」、そして「免ハラ」、「エンハラ」とハラスメントが花盛りである。なんでもハラスメントになる。日本は一体、どうなるのか?最後に一言。「新人教育には電話番が一番」-。(了)

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