「100年の道のり」(43)-日本プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎選手集めにスカウト合戦-その3(完)
 残る2チームは東京セネタースと大東京である。
 東京セネタースは旧西武鉄道を経営母体とし、オーナーは伯爵の有馬頼寧(よりやす)。今では考えられない選手獲得が繰り広げられた。
 投手陣の柱に、と狙いを定めたのが明大の野口明。大学は「在学中に引き抜かれては」と警戒を強めていた。セネタースの監督になっていたのが明大出身の横沢三郎だったからで、野口を監視付きで合宿に閉じ込めていた。
 こんな獲得手段が語り伝えられているので紹介しておく。
 明大監督が関西へ出張中、菊の御紋章をつけた車が合宿に来た。「野口君を迎えに来ました」と。当時は皇族に野球愛好家が多く、選手をひいきにしていたというから、監視係も不思議には思わなかったようである。
 野口も疑いを持たずに車に乗った。すると運転手が「セネタースの者です」と言い、東京駅から名古屋に向かい、セネタースは契約に成功した。
 この野口は中京商時代、捕手として夏の甲子園3連覇を達成。明石商との延長25回(不滅の大会記録)も経験している。大学に進むと、その強肩を買われて投手に転向、エースとなった逸材だった。
 なぜ菊の御紋章の車が使われたのか。有馬オーナーの関係だろう、というのが定説である。野口が東京に戻った朝、その日は雪で日本史に残る「2・26事件」で、異様な雰囲気だった。エピソード満載の野口獲得劇といえた。
 東京セネタースの看板は苅田久徳。名手の名をほしいままにしたことで知られる。内野に法大の後輩を取り、専大出身らを含め「百万ドル内野陣」として売り出した。
 国民新聞を母体にした大東京はいきなり監督交代という無様な姿をさらけ出した、最初の監督が社会人チームに負けたことで解任。スタートしたときには2代目の監督に慶大OBの伊藤勝三が就いた。
 加えて資金不足だった。オーナーが名古屋軍のトップでもあり、多くの獲得資金をそちらにつぎ込んだからだといわれている。慶大のスラッガー山下実を土壇場で阪急に持っていかれたのもそれが原因だった。
 エース格の左腕近藤久(名古屋商)は子供のころのケガで左手が十分開かないハンデを背負っていた。ボールを押し込んで投げるところから全球クセ球という個性的な投手だった。打者で目立ったのは鬼頭数雄(日大)でのちに首位打者となった。
 驚いたのは監督を含めて13人で発車したことである。
 7球団がそろい、形が整った。巨人は2度目の米国遠征に向かったため、残り6チームでスタートした。(続)