「100年の道のり」(47)-日本プロ野球の歴史(菅谷 齊=共同通信)

◎体たらくの巨人に早大コンビが乗り込む
 「こんな弱いチームを見たことがない-」
 巨人の監督を引き受けた藤本定義は、三原脩を東京の自宅に訪ね、巨人の体たらくを嘆いた。用件は、助監督として助けてくれ、という誘いだった。1936年(昭和11年)7月のことである。
三原はこのとき、除隊したばかりだった。家族との生活を優先したい、との理由で入団を拒否した。
藤本はあきらめなかった。翌日も顔を出し、口説いた。
「巨人の選手は米国帰りで浮かれていて、プレーになっていない。鍛えなおさないとダメだ。それには君の助けが必要なのだ」
この年、巨人は米国遠征から戻ったものの、7月の三都市大会で2勝5敗。藤本の目には腑抜けとしか映らなかった。
三原は巨人の契約第1号の選手であり、藤本にとっては早大の後輩でもあるところから、強く入団を求めた。しかし、三原は契約を巡って巨人と対立し、退団したという過去があり、心中は複雑だった。藤本の熱心な誘いを何度も断ったのは、気持ちが乗らなかったのである。
その三原が巨人復帰を決めたのは8月の終わりだった。藤本の執念が実ったのだが、三原は大学の先輩の顔をつぶすわけにはいかなかったのだろう。
このころの巨人は選手とフロントの関係が最悪だった。選手たちの不信感は頂点に達していた。待遇問題、監督人事だどで、水原茂や田部武雄、苅田久徳らの主力は辞め、沢村栄治もやる気を失っていた。そんなよどんだ空気がチームを覆っていた。
藤本監督32歳、三原助監督25歳の早大コンビは、チーム再建の目標を決めた。
「根性を叩き直す」-。
練習場に選んだのは群馬県館林茂林寺。グラウンドは分福球場、通称は茂林寺球場だった。東武伊勢崎線の茂林寺駅から徒歩10分ほどのところにあったのだが、現在は学校のグラウンドになっている。
ここはおとぎ話の「分福茶釜」で知られる。たぬきが茶釜に化けて助けてくれた和尚さんに恩返しをする、という物語である。
練習は9月5日から8日間の予定で始まった。
その練習は地獄と呼ばれたほどすさまじいものだった。巨人の球団史では、長嶋茂雄監督の伊東キャンプと並ぶ激しさと伝えている。(続)