「インタビュー」日本人大リーガー第1号 村上雅則(3)「その時を語る」ー(聞き手・荻野 通久=日刊ゲンダイ)
3か月の予定でスタートしたアメリカ野球留学。それが1年間に延びたことで、シーズン終盤にビッグ・サプライズが待っていた。2A。3Aを飛ばしての1Aからのメジャー昇格である。
―1964年の9月1日に1Aのフレズノ・ジャイアンツからメジャーのサンフランシスコ・ジャイアンツに昇格するのですが、なにか思い当たる節はあったのですか?
村 上「まったくなかったです。8月の末にロッカーで選手が集まって何やら話していた。首を突っ込むと、だれがメジャーに昇格するのか、という話題でした。9月1日にメジャーの選手枠が25人から40人に増えるからです。『マッシー、ひょっとしたらお前にもチャンスがあるかも』と言われましたが、ピンと来ずに『フーン』という感じでした」
―正式にはいつ言われたのですか?
村 上「8月29日にフレズノの監督から伝えられました。翌日、フレズノのオーナーが試合後に選手をロッカーに集め、私の昇格を発表しました。フレズノからサンフランシスコを経由して、ニューヨークまでの飛行機の切符を渡され、チームが泊っているホテルの名前を聞かされました。チームがメッツ戦のためニューヨークに滞在していたからです」
―どんな気持ちでしたか?
村 上「まさか自分が、という気持ちでしたね。1Aからいきなりメジャーに上がることが、どんなに凄いことかもよく分かっていませんでした。フレズノは1Aの8チームが参加するカルフォルニアリーグに所属していた。チームにはリーグの首位打者や本塁打と打点の二冠を取った選手もいた。私の成績は11勝7敗、防御率1.78。106回で159奪三振。リリーフ投手としてベスト9に選ばれ、新人王にも選出されました。結局、チームから昇格したのは私一人でした」
―球団や監督から大抜擢の説明はあったのですか?
村 上「なかったと思います。後に知ったことですが、当時のサンフランシスコ・ジャイアンツのアルビン・ダーク監督について、マスコミが『祖父が南部出身だからダーク監督は黒人選手を使わない』などと報じていた。そうした報道後の昇格だったので、球団が『黄色人種の日本人選手だって、ちゃんとメジャーに昇格させているではないか』とアピールする材料にしたのでは、と言われたそうです」
―真相はどうだったのでしょうか?
村 上「後年、NHK・BSのテレビ番組『世界わが心の旅』でダーク監督を訪ねたことがあった。人種差別のことがずーと気にかかっていたので、その時、思い切って、なぜ自分を昇格させたのですか、と聞いた。ダーク監督は『私は人種で選手を使ったり、使わなかったりはしない。実力で判断する。君は1Aで活躍していた。力があるから(メジャーに)呼んだのだ。実際、君はメジャーで結果を残したではないか』と話してくれた。スカウトからのレポートを読んだり、話を聞いたりしての昇格だったそうです」
―ニューヨーク行きで胸が大きくふくらんだでしょうね。
村 上「それがサンフランシスコに着いても、だれも迎えに来ていない。仕方がないので、通りかかった搭乗する航空会社のパイロットに乗る飛行機を聞いた。ニューヨークでもだれも出迎えがおらず、ホテルに行くバスがあることを教えてもらい、何とか着くことができた。早速、チェックインしようとしたら、フロントが『予約名簿にお前の名前はない』と。『俺は今度、ジャイアンツに昇格したマッシー・ムラカミだ。チームがここに泊っているはずだ』と知っている英語を並べても通じない。どうしていいのかわからず、荷物を持ってロビーの隅で一人ションボリと座っていた。このまま路頭に迷うのか、と不安になったものです。しばらくしたらジャイアンツのトラベル担当者がやって来て、やっとチェックインができた」
―ひと安心ですね。
村 上「ところが部屋に落ち着いてから2時間たっても、3時間たっても何の連絡もない。お腹は減るし、ニューヨークは物騒だから一人で外へ出るな、と言われていたし…。仕方なくホテルのレストランに行ったら、エースのホワン・マリシャルが『君が今度(メジャーに)上がってきた日本人ピッチャーか』と声をかけてくれ、一緒のテーブルで食事した。あのとき食べたローストビーフのうまかったこと」
―次回はいよいよメジャー初登板の話をうかがいます。(続く)