「100年の道のり」(66)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)

◎関西から始まった復活の動き
 終戦。1945年11月に東西対抗。これがプロ野球復活の狼煙(のろし)となった。本格的な復活の動きは、実は関西からだった。阪神、阪急など4球団で「関西野球連盟」をつくり、再開への活動をスタートさせた。
 再開の動きがなぜ関西から、というと球場の問題があった。東京の後楽園や神宮はGHQに接収されて自由にならなかった。阪急の本拠だった西宮は無傷だったことから、阪急がいち早く練習を始めるなど、実質的な動きがあった。
 後楽園を使えなかった巨人は愛媛・松山で練習を行った。松山商出身の千葉茂が縁を頼って食糧を調達したのが大きかった。
 関西の4球団は当初、巨人を交えた5球団でリーグ戦再開を考えた。その他の参加チームについては迎え入れる方針を確認した。問題は選手数で、戦地から戻ったかどうかも分からなかったから、各チームは頭を抱えた。
 8球団がそろった。阪神、阪急、グレートリング、パシフィック、巨人、中部日本、セネタース、ゴールドスターである。
 「日本野球連盟」が活動を再開、会長に鈴木竜二が就いた。再開に際しての大きな問題はペナントレースの形だった。「春秋2シーズン制」の意見が多かったが、副会長の鈴木惚太郎が「1シーズン制」を強く主張。鈴木はベーブ・ルース来日の功労者で大リーグに精通しており、野球の将来を見据えた論陣を張り、各チームの代表はそれに従った。
 46年3月に毎日杯争奪戦(優勝阪急)、4月に入って名古屋優勝大会(優勝巨人)、読売優勝大会(優勝阪急)が行われ、ペナントレース再開の準備は整った。8チームの監督と主な選手は次の通り。
 グレートリング=監督・山本一人、投手・別称昭、打者・田川豊、河西俊雄
 巨人=監督兼投手・藤本英雄、投手・中尾輝三、川崎徳次、打者・千葉茂、黒沢俊夫
 阪神=監督兼内野手・藤村富美男、投手・若林忠志、捕手・土井垣武、打者・金田正泰
 阪急=監督・西村正夫、投手・天保義夫、打者・青田昇、野口明
パシフィック=監督・藤本定義、投手・真田重蔵、打者・白石敏男、藤井勇
中部日本=監督・竹内愛一、投手・服部受弘、打者・小鶴誠、杉浦清
セネタース=監督・横沢三郎、投手・白木義一郎、打者・飯島滋弥
ゴールドスター=監督兼外野手・坪内道典、投手・内藤幸三、打者・西沢道夫
とりあえず試合を行う陣容は整った。(続)