「ONの尽瘁(じんすい)」(1)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

*「尽瘁」=自らからの労苦を顧みることなく倒れるほどに全力を尽くす意
スポーツ紙の番記者時代、幸運にも!! ONが巨人監督として「初優勝」を遂げた瞬間に居合わせることができた。1987(昭和62)年、王貞治のセ・リーグ優勝と、94(平成6)年の長嶋茂雄の日本シリーズ制覇である。それぞれの「初」へ球運と労苦を注ぎ込んだ2人の指揮官の闘いを振り返る。まず就任4年目に宿願を果たした王のケースからー。
◎1432日目の歓喜と変説
胴上げされる王のすぐ目の前に、巨大なシャンデリアが迫ってきた。87年10月9日、深夜。巨人の優勝祝勝会が広島市内のホテルで行われていた。この日が広島への移動日だった巨人は、試合のあった2位広島が敗れたことで、優勝が決まったのだった。
ウイニングボールもない。声援もない。紙吹雪もない…。胴上げとメインのビール掛けは、球団が広島で宿舎としていたホテルの宴会場をぶち抜いて行われた。
王にとって監督就任から1432日目。ようやくつかんだ歓喜の瞬間だった。「選手諸君ありがとう。みんなのお陰でこんなにうれしい気分を味わうことができた。何と言ってお礼を言っていいかわからないほどだ…」。あいさつで、王は誇らしさと同時に感極まった表情も見せた。
  84年、藤田元司の後を受け巨人監督に就任した。選手としてV9を担うとともに「世界の王」の名声をとどろかせた。現役引退後は3年間ヘッド格の助監督として戦術と戦略を身につけた。
就任から3位、3位、2位とAクラスをキープしたが、リーグ制覇には届かない。なかでも3年目の86年は「まさか!?」の展開となった。130試合制での優勝ライン「75勝」を挙げながら最後に広島に逆転優勝を許した。その差わずかに3厘…。
長嶋のリーグ初優勝は第1次政権時の就任2年目に果たしている。片や、王は3年連続のV逸。現役時から僚友でありライバルでもある長嶋と比較されるまでもなく、「信念の人」と称された王に何らかの「変説」が求められた時期が、まさにこのタイミングだったのではないか。当時番記者だった私には、そう映った。
しかし、実は、指揮官の変説はその1年前から既に現われていた。球団フロントに委ねてきた「コーチ人事」にみずから乗り出した。いや、正確には乗り出さざるを得なくなったと言うべきかもしれない。
象徴的な出来事が起きたのは85年の師走。人の往来が激しさをました年の瀬の夜だったー。(続)