「ONの尽瘁(じんすい)」(2)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

阪神の21年ぶりセ・リーグ優勝で幕を降ろした1985(昭和60)年の暮れ、巨人監督の王貞治は、東京・神田の小料理屋に2人のコーチを呼び寄せた。1人は須藤豊、もう1人は国松彰。ともに、王とは気心が知れた仲であり、政権の中枢を担う人物だった。
単なる忘年会と思われたこの「三者会談」がただならぬ雰囲気をもたらしたのは、宴も半ばを過ぎたころ指揮官の「怒号」が店の外にまではっきりと聞こえてきたからだ。小料理屋前に詰めていたスポーツ紙の数人の記者は、聞いたことのない王の怒声に耳を疑い、はじかれたように思わず顔を見合わせた。
それは、確かに、こう聞こえたー。
「おまえは、おれに謝れ!!」
「おまえは、おれに尽くせ!!」
これより1カ月ほど前。86年シーズンに備え、王はスタッフの人事刷新に動いた。それまで置いてこなかった「ヘッドコーチ」を新設。「鬼軍曹」とうたわれ、苦言、箴言をいとわぬ性格の須藤を守備コーチから昇格させようとした。ところが、須藤は「二軍で若手を育てたい」と固辞。二軍監督への転出を希望したのだ。
再考を余儀なくされた王は悩む。何でも首肯する「イエスマン」、自身に対する「忖度」イメージが付きまとうチーム変革に乗り出し、「NO」と言える参謀役を求めた刹那、その構想が崩れたのだから無理もなかった。それでもチーム強化のため柔軟な考えを採り入れることにちゅうちょはしなかった。
王は「ポスト須藤」に選手とのパイプ役に適した国松をヘッドに据えることを決断。自宅も互いに歩いて数分内というご近所仲間でもあり信頼も厚い国松なら、第二案とはいえチーム改革の目玉となった「ご意見番」にうってつけと考えた。
暮れの三者会談は、この人事を巡る騒動にピリオドを打ち、気持ちよくシーズンを迎えるための「手打ち」の意味が込められていた。
これらの経緯から類推すると、王の前者の言葉は須藤に、後者は国松に、向けられたものだったろう。
人前で喜怒哀楽を爆発させたことのない指揮官が初めて見せた一面は、勝つために激情も発露させていこうとする表れだったかもしれない。でも、その怒声がまさか店外にいた番記者たちにまで聞こえていたとは、知るよしもなかっただろうが…。(続)