「ONの尽瘁(じんすい)」(3)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

1985(昭和60)年当時、年が改まって間もない1月10日前後にある「儀式」が東京・田園調布の「巨人軍多摩川グラウンド」で恒例になっていた。自主トレ初日の練習前、監督始めスタッフ、全選手を前にして、新たに番記者になったニューフェースたちが1人ずつ自己紹介を行うという一大セレモニーだ。監督や選手に自分の存在をアピールする絶好のチャンスでもあり、記者にとっては本業の記事執筆という作業より相当緊張を強いられるイベントといえた。
かくいうわたしも85年元日から巨人担当記者に就いたばかりの新参者。当然この関門を通過しなければならなかった。「ただ普通にあいさつしただけでは選手の印象に残るまいー」。一計を案じた。監督・王貞治が立つ方向に真っすぐ視線を合わせ、思いっきり声を張り上げた。
「ボールカウント・ツースリー。さあ、勝負して来い、鈴木。第6球、投げた。打った!ライト、大きい。ライト、バック、なおバック。入った!ホームラン!ホームラン!ついに出た。756号達成の瞬間であります。一塁手前、王選手がバンザイ!もはや、王選手の前に、人は、ありませんっ!!」
1977(昭和52)年9月3日、王がヤクルト鈴木康二朗から、ハンク・アーロンの記録を抜く通算756号を放ったときの実況中継を即興で披露した。最後に「今年の秋には、王監督の胴上げを実況させていただく所存です!よろしくお願いします。以上、実況はニッカンのタマキでした!」と付け加え、自己紹介を終えた。
この実況は、わたしが尊敬していた文化放送・月岡逸弥アナウンサーの「名調子」をなぞったものに過ぎないのだが、それなりにインパクトはあったようで選手にはすぐに名前を覚えてもらった。このとき指揮官だけは、ちょっぴり苦笑いだったように見えたけど…。
「架空実況」通り?の明るい未来予想図が描けそうな85年だったが、ペナント争いは架空実況とかけ離れた結果になった。先発3本柱の瓦解、中核打者の不調、レギュラーの世代交代…。チームは9月早々に優勝戦線から離脱。優勝した阪神に12ゲームも引き離されて3位に沈んだ。84年の3位に続くAクラスながら、それは王にとって何の慰めにもならなかった。むしろ2年連続V逸という、耐えがたい屈辱に襲われただけだった。
就任当時からスタッフ、選手補強でもほぼ現状維持を保ってきた王がさすがに動かざるを得なくなった端緒が、前回述べた、ヘッドコーチをめぐる「迷走」だった。
王巨人にとって、その85年とはどんな意味をもつシーズンだったのだろうか?(続)