「100年の道のり」(69)プロ野球の歴史-(菅谷 齊=共同通信)
◎エピソードだらけのチーム名
リーグ戦再開の1946年(昭和21年)はまだ1リーグ8球団で行われ、順位はこうなっている。
勝 敗 分 勝率
1グレートリング 65 38 2 .634
2巨人 64 39 2 .621
3阪神 59 46 0 .562
4阪急 51 52 2 .496
5セネタース 47 58 0 .448
6ゴールドスター 43 60 2 .417
7パシフィック 42 60 3 .412
7中部日本 42 60 3 .412
注目してほしいのはチーム名である。リーグ戦が始まる前後は、チーム名をどうするか、で各球団は頭をひねった。戦時中は「漢字のみ」だったのが、戦争が終わると「カタカナはよろしい」となった。
これはメディアにとっても大きな問題となった。リーグ戦再開のとき、日本名で報道されたのは巨人、阪急、中部日本の3チームだけだった。
タイガースを名乗っていた阪神は「タ軍」「タ倶」が多かったが、「阪神」としたところもあった。45年の正月大会では「猛虎」としていた。つまり呼び名がいくつもあったわけで、47年に「猛虎改め阪神」となった。
ファンが混乱しないように、と全チーム日本名にしたのだが、再開2年目の公式記録はこう変わっている。
・グレートリング→近畿→47年南海
・セネタース→青踏→47年東急
・ゴールドスター→47年金星
・パシフィック→太平→47年太陽
・中部日本→中日
大きな声で言えないのが「グレートリング」。女性のある部分を指す米国のスラングで駐留の米兵が球場でクスクス笑ったというエピソードがあり、慌てた球団が変えたという。不可解なのはセネタース改め「青踏」の意味。「セネタースの語呂合わせ。熟語ではない」と伝えられている。「太陽」は48年には「太」の点を取って「大陽」とした。弱小に奮起して「点を取るチームに」という意味だったようである。
戦後社会が落ち着かない時期だったし、球界もバタバタしていた時代だったが、なんとかファンの理解を得て人気上昇につなげたいという意思がうかがえた。このころ球団身売りなどもあって裏面では深刻な事情を抱えていた球団もあった。(続)