「ONの尽瘁(じんすい)」(4)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

王政権2年目。1985(昭和60)年シーズンの巨人の「V逸」は、開幕2カード目の阪神戦(4月16~18日、甲子園)に要因があったと言って過言ではないだろう。35年以上経った今でもプロ野球ファンの語り草になっている、「アレ」ならぬ「あの」3連発があった。惨たんたる3連敗の戦績を掘り起こす。
第1戦●2-10 被安打9(被本塁打4)
第2戦●5-6   〃  9(  〃  3)
第3戦●4-11  〃 14(  〃  3)
巨投は3試合で計10発、32安打を浴び、27失点と無残に散った。3連敗の結果以上に「伝統の一戦」を担う盟主にかつてない衝撃を与え、その矜持(きょうじ)をズタズタに切り裂いたのが第2戦だった。
3-1の7回裏2死一、二塁。先発槙原寛己は、3番ランディ・バースと対峙(じ)する。初球はシュート。その前の打席で併殺に打ち取ったのと同じ球種で「二匹目―」を狙った。だが「無理に引っ張らずセンター方向に打ち返すことを意識した」バースに、逆転3ランをセンターバックスリーンまで運ばれてしまう。
4番掛布雅之には1ボール1ストライクから144㌔のインハイを、5番岡田彰布にはスライダーを打たれ、ここに球史に残る「バックスクリーン3連発」が完成する。打たれた槙原の視線は宙をさまよい、試合後「もう頭が真っ白…」と言葉を絞り出すしかなかった。何度も自らの頭上を越えていく白球を見送ったセンターのクロマティは「アンビリーバブル!」とうめいただけで、見上げ続けて肩が凝ったとばかり、皮肉まじりに首のあたりをさすった。
巨投NO・1の速球派。入団4年目で先発ローテ入りが期待された槙原の炎上は、何より監督の王には痛手だった。「先発3枚(西本、江川、加藤初)に続いてくれれば…」と、3年目の斎藤雅樹とともに成長が待たれていたからだ。
第1戦ではベテランショートの河埜和正が、守備で平凡な飛球を落球するなど2失策。レギュラーの世代交代を暗示するように、スタメン出場の機会を奪われる端緒となった。第3戦は新加入キース・カムストックのデビュー戦も、3回3失点KO。2番手の定岡正二も打ち込まれた。82年にキャリアハイの15勝を挙げた定岡ながら、その後低迷。結局、このシーズンを最後に現役引退に追い込まれてしまうー。何やら、「嵐のオフ」への予感が凝縮された3連敗だった。
4月の成績は5勝8敗の借金3。阪神は9勝3敗1分け。広島は7勝6敗。先行逃げ切りを得意とする巨人だけに、開幕ダッシュの失敗は痛かった。報道陣から「投手陣の補強策は?」「1、2軍の入れ替えは?」と矢継ぎ早に聞かれると、王はムキになってこう切り返した。
「君ら(報道陣)の言い分なら130試合全部に勝たないといけないじゃないか!(苦笑い)。まあ、(借金は)逆に考えたら、この時期でよかったんじゃないかな…」。
何事もプラスに捉え、アクシデントがあっても早い時期なら、まだ立て直すチャンスはいくらでもあるー。確かに、5月に入るとチームは2分けをはさむ7連勝と怒とうの快進撃をみせた。王の口癖はただの強がりではなかったわけだが、その指揮官の内奥では、ある「迷い」が生じていたのも、確かな事実だった。 (続)