「ONの尽瘁(じんすい)」(6)―(玉置 肇=日刊スポーツ)

指揮官の個性の差異を知る方法として、選手とのコミュニケーションの取り方がある。先の日本シリーズのテレビ中継でも、ベンチで選手に声を掛けるタイプもいれば、接触はもっぱらコーチに任せ、自らは不動のタイプもいて、それぞれ興味深い。もちろん画面で捉えられるのはほんのワンシーンだから、ベンチ裏、あるいは普段の接し方がどうかまではわからない。
ただ、わたしが巨人番を務めた1985(昭和60)年当時の監督・王貞治の場合は、明らかに後者の部類だったと思う。管見の限り選手とのコミュニケーションはほぼコーチに任せ、直接話し掛けることは政権1、2年目の頃はあまり見たことがなかった。
そんななか、指揮官が直接指導に動いた選手がいた。外野手の駒田徳広だった。王は監督就任1年目の1984(昭和59)年、史上初のプロ初打席でのグランドスラムを放ち「満塁男」の異名を取った駒田に「一本足打法」を勧めた。同じ左打ちの主砲たる自らの継承者として期待を寄せたのだった。
試合前の打撃指導はもちろん、首都圏での試合が続くときには王の師匠・荒川博の自宅に通わせ、かつての自分と同じように合気道を習わせ、夜中まで真剣を振らせるなど一本足の習得に腐心した。
だが、当の駒田はなかなか結果を出せず、スランプに陥った。1軍の出場機会も他の若手に奪われるようになった。ついに一本足トライ2年目の85年序盤、習得を断念する。一本足打法は、やはり王による、王のための、王にしかできない「熟練技」だった。
駒田の不振をよそに、それでも85年の巨人打線は破壊力抜群だった。1番松本匡史(3割2厘、32盗塁)、2番篠塚利夫(現和典3割7厘、8本塁打)、3番W・クロマティ(3割9厘、32本塁打、112打点)、4番原辰徳(2割8分3厘、34本塁打、94打点)、5番中畑清(2割9分4厘、18本塁打)、6番吉村禎章(3割2分8厘、16本塁打)…と、スタメンのほぼ全員が3割前後をマーク。指揮官が目指す不動のオーダーを形成しチームを押し上げた。
だが、好事魔多し。指揮官は新たな問題に直面する。三塁コーチで守備走塁コーチの柴田勲に判断力の「迷い」が疑われるシーンが散見されるようになった。ことに二塁走者を後続打者の安打で本塁に突っ込ませるかどうかで判断ミスが続いた。「GO」で突っ込ませたはいいが、本塁憤死。逆に羮(あつもの)に懲りてなますを吹いたか、三塁で「STOP」させると、「あの外野、肩が弱いのに!」とファンの失笑を買った。
柴田が「壊れた信号機」と呼ばれたのは、この頃だ。
走塁指示はその日の気象条件やグラウンドコンディション、守備隊形、打球の位置、相手野手のクセや肩の強弱などから瞬時のうちに判断して走者に出されることが求められる。コンマ1秒の状況判断の遅れが命取りになるだけに、ベンチからのサイン伝達とあわせて、三塁コーチは極めて戦略的な役割を担う。信号機としてのシグナル発信に齟齬(そご)をきたしては、チームは機能しない。選手の首脳陣不信にもつながりかねない。
V9をともに戦い、監督就任時からチームを支えてきた盟友を、王もかばいきれなくなった。柴田は85年オフ、コーチ辞任に追い込まれる。(続)