「スポーツアナウンサーの喜怒哀楽」(1)-(佐塚 元章=NHK)

◎クモ男との遭遇(前編)
▽初めての修羅場に衝撃
 1973(昭和48)年6月、2カ月の研修を終え、NHKの新人アナウンサー16人が全国の任地に飛び立っていった。研修終了の送別の辞で、先生をしていた先輩アナウンサーが言った。
 「定年までに誰もが1回は修羅場に遭遇する。それがいつ来るか誰にもわからない。その時、君がいかなるスタンスで適切なアナウンスができるか、君の実力が問われる」
 それから入局17年目。39歳で私は「その修羅場」に遭遇した。「クモ男事件」の放送である。90年5月12日午後7時17分、NHK総合テレビのプロ野球全国放送が始まった。解説広岡達郎さん、山田久志さん、実況佐塚元章である。オープニングアナウンスが「広島市民球場の広島-巨人7回戦です。もう五回を終わっています。2対1で巨人がリードしています…」と伝えた直後だった。画面は、ナップサックを背負ってバックネットをよじ登っていく忍者姿の男に変わる。スタンドは騒然となった。三塁ベンチを出て巨人の藤田元司監督やウォーレン・クロマティが「何だこれは」と怪訝な表情でバックネットを見上げている。
 ようやく状況を理解した私は「今、バックネットに忍者姿で頭巾を被った男がよじ登っています…」と事実を伝えた。男は13メートルのバックネットを一気に最上段まで登りきり、何かをわめいている。すると、垂れ幕をバックネットに掲げた。
 「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「天誅!悪ハ必ズ滅ビル!」と書かれている。これで男の行動の背景が分かってきた。「暴露本」「投げる不動産屋」など当時の巨人選手の問題に対する抗議だったのだ。画面はプロデュ―サーの判断で、垂れ幕の文字がはっきり読めないようにした。このあたりから私の葛藤が始まった。垂れ幕の文章を読むべきか否か?読めば男のプロパガンダに乘ることになる。差別表現や放送禁止用語が入っていないか。さらに、男のナップサックに爆弾が入っていないかが一番心配だった。
 男は、テレビの全国放送を狙って犯行に及んだのは明らかだ。私は解説者2人に、FU(スイッチ)をおろして「社会問題化するおそれがありますので、発言は慎重に頼みます。茶化さないでくださいね」とお願いした。実は、冗舌で脱線が怖い広岡さんが心配だった(笑)。男は叫びながら、ナップサックから何かを取り出しグランドに投げた!3万観衆は固唾を飲んで見守った。(続)