「記録とメジャーを渡り歩いた記者人生」(2)-(蛭間 豊章=報知)

◎ 記録の神様に叱られ眠れぬ夜も
2024年の野球殿堂特別表彰の候補になった宇佐美徹也さん。残念ながらそれは実現しなかったが、「記録の神様」としての実績は輝いている。私が1973年、報知新聞に入社した時、編集局記録部長だった宇佐美さんは入社試験の面接に立ち会い、私も質問された。「君は打点の事を英語で何というか知っているか」と聞かれ、「わかりません」と答えた。これは不合格かなと思ったが、運良く入社に出来た。宇佐美さんの定年で退社した88年(当時は55歳)まで、上司と部下としての関係で私の仲人もやってもらった。
原稿に関しては厳しくて、記録室の原稿を突き返されたことも何度もあった。特に84年、この年MVPに輝いた広島の衣笠祥雄選手が14年連続全試合出場をマーク、当時の米大リーグ記録であるルー・ゲーリッグの記録を抜いて世界一になったと記録室担当の私は書いた。この日、宇佐美さんは休みで、当時の野球デスクに原稿を出して、翌日の1面に掲載された。
翌日、出社するなり、「何だこの原稿は。ゲーリッグと内容が違うだろう」。つまり数字の上では抜いたが、ほとんど先発出場したゲーリッグと打撃内容が違う。それに連続出場のために代打などでつないだ記録ということだった。記録に関して上辺だけの数字ではなく内容も考慮しながら原稿を書けという、改めて宇佐美さんなりの記録に関しての強いメッセージだった。ちなみに私が宇佐美さんにこれは面白いと言われたのは、覚えている限り15年間で2度しかない。
もう一つ、宇佐美さんとの大きな思い出が入社2年目の74年5月。巨人は1年ごとに東北遠征と北陸遠征を行っていた。この年は東北遠征で盛岡、仙台、郡山だった。今でも続いている「きょうのプロ野球」という、翌日の試合を出すのは記録担当。15日付けは私が担当で、仙台と書くべきところを郡山と書いて、その間違いに気づいたのは最終版だけ。東北地方に配られる紙面はすべて郡山で行ってしまった。それを宇佐美さんに伝えると無言。いつもは一緒に帰るタクシーでも一切口を開いてくれなかった。
興行主に苦情を言われた場合、多額の支払いの責任が出てくる可能性もある。そうなったら会社を辞めるしかないかなという思いもあって、私は寝られない一晩を過ごし、翌日早めに会社に行った。宇佐美さんも上司として同じ思いがあったのかもしれない。記録部の部屋に入ると、もう宇佐美さんは来ていた。
 私の顔を見るなり、「おまえは悪運がある。きょうの試合は中止になった」と笑った。こっちは一気に力が抜けた。あれから50年。もし試合が行われていたら、今の私は存在しないだろう。(了)=次回は5月に掲載=