「ノンプロ魂」(8)-(中島 章隆=毎日)

◎第3回 アマ球界随一の名将・大久保秀昭(中)
 選手として、また監督として何度も「日本一」を経験しているENEOSの大久保秀昭だが、9年間過ごしたプロ野球の世界では「日本一」に届かなかった。
 慶応大学を卒業後、日本石油(現ENEOS)に入社、1年目からレギュラーを獲得、社会人野球の最高峰、都市対抗野球大会で2度優勝、プロからも注目されたが、1996年のアトランタ五輪出場を目指してドラフト指名凍結選手に。アトランタ五輪で銀メダルを獲得し、その秋、27歳で近鉄バファローズのドラフト6位指名を受けてプロに進んだ。
 年齢的にプロ入りに否定的なアドバイスをもらうこともあったようだが、大久保が「プロ」にこだわったのは、社会人時代に耳にした、こんな評価があったからだという。それは「所詮アマチュアだろう」という一言だった。アマチュア野球を一段下のように見下したプロ関係者の言葉だ。「それなら、プロの世界を見るのを悪くない」と心を決めた。
 プロ入りまもなく、右肩痛に悩まされ、本業であった捕手としては1度も一軍での出場機会に恵まれなかった。代わりに捕手として磨いてきた配球への読みを生かし、勝負強い左の外野手として代打の切り札として起用されることが多かった。選手として5年在籍し、一軍での出場は3シーズンだけだった。
 選手としては期待されたほどの力を発揮できなかったが、アマチュア時代の豊富な経験や頭の良さ、人当たりの柔らかさなど大久保の能力の高さを球団は放っておかなかった。現役を退いてからは当時の梨田昌孝監督の専属広報として2シーズンを過ごした。
 慶応大の監督時代、大久保は雑誌の取材に近鉄時代のことを振り返り、こう話している。「近鉄の広報をしていた頃は、嫁に『背中が小さくなって覇気もない』と言われました。輝いていなかったと思います。(略)でも、(広報だった)あの2年間は僕にとって、めちゃプラスになっています。マスコミの方とのコミュニケーションだったり、球団の裏の仕事の部分だったり、組織を見ることが出来ました」
また、シーズン50本塁打を打つ中村紀洋やローズの打撃にチームメートとして接したほか、松坂大輔と対戦するなど「プロのすごみ」を身をもって体験することで得たものは少なくない。
ユニホームを脱いだ大久保を再びプロ野球の現場に呼び戻したのはアマチュア球界の大先輩だった。法政大学時代、現在も東京六大学記録の通算48勝の大記録を打ち立て、バルセロナ五輪の日本代表監督も務めた山中正竹だ。この頃山中は横浜(現DeNA)ベイスターズの専務取締役をしていた。大久保を横浜の二軍チーム、湘南シーレックスの打撃コーチとして招いた。アマチュア時代の大久保の活躍や主将としての統率力、プロでの苦労した経験などを見込んだ上での抜擢だった。
大久保は「数年、湘南に籍を置き、将来的に近鉄球団に戻ればいいか」と思い、山中の要請を受け入れた。だが、湘南に移籍した2004年、大久保が「将来、骨を埋める」つもりだった近鉄球団がオリックス球団との合併を発表、チームが消滅することになった。指導者としての道を歩み始めた大久保にとって、このときから歴史の歯車が大きく変化していく。(続く、敬称略)